小泉八雲と夏目漱石
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は1850年にギリシャのレフカダ島(当時はイギリスの保護領だった)でアイルランド生まれのプロテスタントだった父とギリシャ人の母の間に生まれた。父母の離婚後は父母に会うことはほとんどなく、アイルランドで父方の大叔母に厳しいカソリックの教育を受けながら育つ。厳しいカソリック教育はカソリックに対する反発を生み、そのことが彼のキリスト教以外の宗教や心霊的なものに対する興味を育てたのだろう。
波乱万丈な少年期を過ごした彼はアメリカにわたり、20代前半から新聞記者として活躍することになる。
この時期に彼が書いたものは文芸評や旅行記、西インド諸島を舞台とした小説、犯罪実話、ニューオリンズのクレオール文化についての本、ガンボ料理のレシピ本、モーパッサンやゾラの小説の翻訳など多岐にわたるが、中国の怪談を収集し編纂したものもあった。他文化やクレオール文化や西インド諸島に見られる文化的多様性、心霊趣味といったものに興味があるのがうかがえる。
ようするに来日以前から盛んな執筆活動を続け、才能を発揮していた人なのである。
1890年、日本に興味を持っていた彼はアメリカの通信社の特派員として来日。しかし、トラブルから解雇。紆余曲折をへて英語教師として島根県松江で働くことになり、その時に出会ったのが小泉節子であり、小泉は節子の家の姓である。
その後、1891年から熊本の第五高等中学校に赴任、1894年に神戸に英字新聞社に入社、1896年から1903年までは東京帝国大学、1904年からは早稲田大学で講師を務めた。
東京帝国大学では大変人気があったらしく、政府の海外から招いた講師が高給であったため別の日本人講師に切り替えるようとしたことで退職することになった際、生徒による反対運動まで起こったという。
そのため、後任の講師は生徒に嫌われ大変な苦労をしたが、この後任教師が夏目漱石であったというエピソードはドラマの放送をきっかけに広まっているようだ。
八雲と漱石といえば、八雲の『知られぬ日本の面影』で紹介されている通称「持田の百姓」という松江の持田浦の伝承と、漱石の『夢十夜』の「第三夜」と所説が似ているという話も思いだす。「持田の百姓」は『知られぬ日本の面影』の新訳である『新編 日本の面影』(角川ソフィア文庫)の「日本海に沿って」という章で確認できる。
八雲は怪談ばかり書いていたわけではなく、欧米に日本文化を紹介するような紀行文やエッセイも書いていたのだが、「持田の百姓」はそういった作品の中で紹介されていた伝承の一つだ。
