「茶碗の中」の魅力
「茶碗の中」は江戸時代の未完の怪奇小説の紹介という入れ子構造の作品であり、怪異のおこる因果もわからなければ結末もわからないまま終了し、非常に不安な気持ちで置いてけぼりを食らう。
しかし、この話のもとになった江戸時代の説話集『新著聞集』に収められた「茶店の水椀若年の面を現ず」はちゃんと完結した作品なのである。
現代の実話怪談の中でわりとよく見られるタイプのいささか不可解な結末を遂げるが、これはこれでちゃんと作品として完結しているし、怪異の原因・動機もわかるようになっている。要約するならば、謎の美少年に見初められた武士が不可解な怪異に出会うという話なのである。衆道(男性同士の同性愛やその文化を指す言葉)が深く関わっている物語なのだ。
「茶碗の中」ではこの衆道に関する部分が削られている。
この省略がいかなる理由によるものかについては、当時の米英では同性愛に大ぴらに触れることが許されなかったからではないかという推測が多くの人によってなされている。確かに、当時の米英ではそういったものが受け入れられないと判断するのは普通のことだと思われる。なんといってもヴィクトリア朝時代なのである。
この部分がなくなることで不条理性が高まり、恐怖が増したというのは疑う余地はなく、さらに未完の怪奇小説の紹介という入れ子構造を加えることでさらにそれは高まっている。
自分が気になっているのは、省略をしたのが誰か、未完であるという設定はどこから来たものなのかということだ。
自分は不勉強なもので、既に研究がされている可能性もあるが、ここはひとつ、以前からの率直な感想ということで、広い心で聞いてもらえるとありがたい。
小泉八雲自身によるアレンジだと考えるのが普通であるが、口承で得たものを素材にしているということを考えれば、伝えられる時点ですでに原典とは違うものになっているということでもある。話者の解釈が既に入り込んでいるのだ。
未完の小説であると八雲が意図的にしたのか。話者の語りを八雲が未完であると解釈したのか。話者が未完であると解釈して語ったのか。
それはわからないのである。
衆道に関する部分も同じだ。八雲自身が意図的に削ったのか。話者がその部分について伝えるべきではないと判断して意図的に削ったのか。話者がその部分に重要性を感じなかったり、理解していなかったために省略された形で伝えられたのか。
これもわからないのである。
わかるのは、パーツを削らざるを得ない、もしくはパーツが欠けたものを八雲がセンスでふくらました結果として傑作になったということである。それは間違いなく小泉八雲の才能である。
口伝という要素が加わることで、原典と書き手の間にさらなるブラックボックスが生まれるということに自分は面白味を感じているわけで、アーバンフォークロアや実話怪談を好むのもそういう部分なのだろう。
