一方、「御真影」も、引退から年を重ねる過程で減少しており、機関紙上にリアル画像はなくなってしまった。つまり、池田氏(や夫妻)の写真は、過去のモノが占めるようになり、最近では「車中から激励した」というように、対面で会員と交わることも皆無の状況にある。
であるにもかかわらず、時折、メディアが公明党や創価学会幹部へのインタビューを行う際は、「ところで(池田)先生は、どうされている」の定型質問に対して、常に「お元気です」と常套句が返ってくるばかりである。お元気ならば、なぜ最前線で指揮を執らないのか。素朴な創価学会員が、そんな疑問を抱くのは当然だ。
学会幹部らが「元気」と言わざるを得ないのだろうが、会内において“エネルギッシュ”な池田氏を「ご隠居」などと呼んではならない。創価学会の決まりでは、「名誉会長」や「創価学会インタナショナル会長」など、肩書で表現するのは不可であり、先生と呼ばねば(外野から見て)不敬に相当するのだ。
池田氏はたしかに、日本人の中で長寿であり、(額面通り受け取れば)エネルギッシュな人間だが、死は当然やってくる。戸田氏のような葬儀になるかは別にして、世界192の国と地域に根を張るSGI組織は、戸田時代にはなかった。
したがって、公安関係者がいつも気にするのは、葬儀になった場合の警備対策である。彼らが真っ先に挙げるのは、「中国から誰が来るか」だ。かつて主席の座にあった胡錦濤は池田氏と3回も会談に及んだ。そして「日本で会いたい民間人3人のうちのひとり」と持ち上げたことがある。彼のようなレベルの人物が来るか否かは、警察庁の外事担当者でも注目せざるを得ない。池田氏の口癖には「日中国交回復を担ったのは自分だ」がある。葬儀にかこつけて、中国要人が親中政策で国内を攪乱させたりすれば、自民党保守派や維新が黙ってはいまい。
もちろん、国内に目を転じれば、時の総理大臣や文部大臣まで馳せ参じた先代・戸田城聖の葬儀に増して要人が参列するだろうが、あの時と今では決定的な違いがひとつある。戸田氏逝去の前年、創価学会は無所属候補を立てて参議院選挙に挑み、3人の当選者(全国区2人、地方区1人)を得た。しかし公明党が創設されるのはもっと後の1964年のこと。公明党を創設したのは、池田大作その人である。そして今や、与党として政策決定を左右できるまでに成長した。