その正体は「押さえ込み」による3カウント決着だ。例えば試合開始10分までは普通にプロレスをやっているのだが、10分経過のコールとともにボディスラムなどでマットに叩きつけて仰向けになった相手の上に覆い被さり、相手の肩をマットに付けて3カウント押さえ込むことができれば勝利。跳ね返されれば攻守交代して同じく押さえ込む、といったものだ。アマレスの押さえ込みに近いが、ポジション取りの概念などはないのでそれとも別物。恐らく世界中のプロレス団体の中で全女だけに存在した勝敗を決する形式であり、故にこの押さえ込みのことを別名「全女固め」とも言うのだとか。ただ、勝敗が決まっていないとはいえ地味な画面にしかなりようがなく、あまり面白みのあるものではない。
何故全女にはピストルが存在していたのか? その理由はいくつかある。もっとも頭のおかしい理由としては「松永兄弟が賭けの対象とするため」。JBエンジェルスの立野記代は引退後のインタビューで、若手の頃の試合前、「お前に賭けてるんだから頑張れ」と全女フロントと思しき人物に言われたことを述懐している。実際負ければ「損したじゃねえか」と詰られ、勝てば「ありがとうな」と素直に感謝されたとか。純粋に選手を競わせるのが好きな松永兄弟は若手同士の第1試合はもちろん、時に重要なタイトルマッチですらピストルでやらせる。
若手の頃に散々ピストルをやらせることで負けた時の悔しい気持ちの表現を自然と覚えるなどの効果もあり、賭けの対象としても楽しむことができてフロントとしてはいいことづくめ。松永兄弟にとってプロレスは独占市場の利権を得て始めた家業であり、それ以上でも以下でもない。男子も含めたプロレスというものにそもそも興味がないから、時に賭けの対象にしたりの暴挙も平気でできる。
また、ピストルは選手の世代交代にも容赦なく使われていた。1981年2月に行われたWWWA世界シングル王者ジャッキー佐藤のタイトルに横田利美(後のジャガー横田)が挑戦し勝利した試合も、最後は押さえ込みだった。“タイトルマッチで後輩に負けた選手は引退”という当時の全女の不文律に従い、赤いベルトを奪われた2カ月後にはジャッキー佐藤は引退している。
1979年2月にマキ上田との敗者引退マッチに勝利したジャッキーは、歌手としてもソロ活動を歩むことになったが、ビューティーペアを解散してからというもの人気に陰りがさしてきていた。松永兄弟は選手の人気の鮮度を重視しており、たとえ看板スター選手であっても、人気が低下してきたり、試合内容や芸能仕事の多忙さに見合った金額のギャラを要求するようになると、突然メインイベントから第2試合などに露骨に格下げするなどして辞めさせる方向に持っていくのだという。ピストル=真剣勝負で負けたのならしょうがないと選手も納得がいく。松永兄弟は要所要所で選手たちにピストルを強いることで、団体の新陳代謝を成し遂げてきたのだ。
全女の凶悪さ・その2“杜撰なサイドビジネス”
クラッシュ・ギャルズと極悪同盟のヒートによる興行的成功、そして彼女たちがテレビタレントとしても爆発的な人気を獲得したことで、全女は巨万の富を得た。80年代後半になると、女子プロレスで稼いだ金で松永兄弟は様々なサイドビジネスに進出していく。当時の成金たちが全員手を出した株式投資も当然やらないわけがない。山っ気が人の形を成しているような松永兄弟は、銀行から勧められるままさらなる融資を受けて株を購入。クラッシュと極悪の抗争も同じカードで3年以上毎日のようにやり続けていると新鮮味がなくなり集客も減少傾向に。