1987年には満杯になるかわからない地方会場での手打ち興行は極力減らし、株式の配当を中心に収益を得ていく方向に。商業的にはそれが正解とも言えるのだが、松永兄弟は会社にも会場にも顔を出さずサイドビジネスに集中するようになり、本業の女子プロレスが疎かになっていく。全女の経営どころではなくなってきた松永兄弟に対し、多忙な割に給料に反映されないなどの待遇改善を求めた選手たちからの不満が噴出。「突然引退を発表して会社を困らせて辞めてやろう」とダンプ松本が1988年1月に引退宣言をしたのも当然と言える。先述のように、松永兄弟はプロレスというものに興味がない。
女子プロレスという家業に愛着はありこそすれ、より大金が稼げるものがあるならそちらに全力で注力していくのだ。
バブル景気に沸く1987年1月、銀行のアドバイスに従い人里離れた秩父の山奥の土地を買わされて、そこにリングスターフィールドなるリング付き宿泊保養施設を開業。オープンからしばらくは選手参加のファンの集いをここで開催していたのだが、公共交通機関が何もない異常なまでのド田舎に作ったため、イベントがない時はファンすらほぼ寄り付かず、大学のプロレス研究会が夏合宿に数組利用するだけで年中閑散としており、いつしか倉庫代わりに。女子プロレス団体運営以外の才覚のなさを露呈することとなった。
以前長与千種にインタビューした際、「ハワイ旅行の積立金を給料から毎月天引きされていたんですけど、いつまで経っても旅行になんか連れて行ってもらえない。気がついたらリングスターフィールドができ上がっていて。あれは私たちからハワイ旅行代金として徴収したお金で建てたんだろうともっぱらの噂でした」と語っていた。いい加減なエピソードには事欠かない全女らしい話である。
また、松永兄弟は飲食業の経営を好んでやっていた。
リングスターフィールド開業と同じ1987年、目黒の全女事務所ビル2Fにレストラン『SUN族』、同じく目黒にカラオケパブ『海賊』を次々開店。プロの料理人を雇ったりはせず、デビューしたての若手や巡業に連れて行ってもらえなかった選手が交代で調理と給仕を担当。少額とはいえ給料を発生させていて、理にかなった選手育成システムではあった。ちなみに90年代中盤に俺がSUN族を訪れたとき、調理を担当していたのは広報の多田さん。なんで自分はプロレス団体フロントが作る料理をわざわざ金払って食べさせられているんだろう?と、苦笑いが止まらなかった。