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中核派として革命を目指す女子・洞口朋子インタビュー

中核派として革命を目指す女子・洞口朋子インタビュー インタビュー
インタビュー社会
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中核派の両親の元に生まれて

洞口さんは宮城県に生まれました。父親は高校生から政治ストを始めて、70年安保闘争の終わり頃に大学で学生運動をした末に逮捕。釈放を求めて運動していた母親と巡り会います。

小学生の頃から、週末は遊園地に連れて行ってもらっている同級生を見るにつけ、週末は集会に連れて行かれる我が家が少し変わっているのではないかと疑問に思っていました。その疑問は、習字の時間に家から持参した新聞がほかの子たちと違う(私の新聞だけ「天皇制打倒」とか書いてある!)ことや、先生からの視線で確信に変わります。絶対にそんな活動はしないと母親に大声で反発したこともありました。デモで両親が言っている「戦争反対」が大事なことなのはわかっていましたが、それを声に出す人たちが少数派なのが気にかかっていました。

どうやって活動と向き合うべきなのか悩んでいた小学校6年生の頃、母親が病気で亡くなってしまいます。当時のことを洞口さんはよく覚えていないそうです。どんな思い出よりも覚えていないという事実が、幼い洞口さんの深い悲しみを表しているようで胸が締め付けられました。そんな折に、イラク戦争が始まったのです。

「中学生の時でした。戦争って本当にこうやって始まっちゃうんだって思ったらなんかやらないといけないと思って、父親のツテで東北大学の学生たちと仙台市内でデモをするようになったんです」

高校生になってからは、原爆の日に広島に行くようになって、その習慣はいまでも続いています。きっと真面目な高校生……かと思いきや、意外にも不真面目なギャルだったと本人は言います。

「前進社のメンバーは進学校の人も多いんですけど、わたしは全然。ギャルっていうか元ヤンですね。成人式の写真とか、多分驚かれちゃう(笑)」

アルバイトに明け暮れてぎりぎりで高校を卒業するような生活でしたが、当時から政治に疑問を感じた時には友人に知らせていました。

「こういう法案が通りそうになってるとか話すようにしてて、でも何言ってんのって反応がほとんどでした。いかんせん友人もヤンキーだったんで……」

卒業後、フリーターになって宮城県の居酒屋で働いていたある日、法政大学で学生運動をしていた学生が一斉に逮捕されたニュースが飛び込んできました。逮捕者の中にはデモで交流のあった人たちも含まれています。一体何が起きてるんだろう。 「親とか周りの活動家を小さい時から見てるので、私も大変になるだろうと思ってたんですけど、おかしいことはおかしいって言わないといけないし、中核派の運動を支えたいから加盟しました」

19歳。洞口さんは仙台市にある喫茶店で書類にサインをして正式に中核派に加盟しました。法政大学に合格したのをきっかけに、上京して前進社に住み始めます。

しかし大学に入学してすぐ、沖縄のデモに参加している最中に公安警察がやって来て東京に連行されました。駅前でのビラ配りなど、学生運動をしている学生の一斉逮捕が強行されたのです。洞口さんは手錠をかけられながら、飛行機でミネストローネを飲んでいる警察たちを見て、絶対に飲まないぞと心に誓っていました。

「留置所では高校の恩師が書いた手紙を警察に読み上げられました。近しい人に活動を辞めるように説得させたかったみたいなんですけど。父親が説得役として使い物にならないので(笑)」

男手ひとつで育ててくれた父親とは離れて暮らしているいまも頻繁に連絡を取り合う仲で、2人の信念は今日も変わっていません。

いつか革命の日がきたら

なんとなくほかの党の人とお付き合いすることもあるのか聞いたら、洞口さんが「それ恋人じゃなくてスパイですよ!」とすごい必死に言うので少し吹き出してしまいました。少しだけ恋愛話なんかをして笑いあった後に、火炎瓶の話が普通に出てくるので、ミスマッチ加減がだんだん可笑しくなってきます。洞口さんも、革命の日がきたら戦ったりするのかなあ。

「いずれ、資本主義の終わりにはそういう風になるんじゃないですか。革命ってなった時に警察や政府と話し合いで折り合いをつけることには絶対ならないと思うので、血みどろの戦いと、名もなき人の必死の抵抗が歴史をつくってきたし、そうなると思います」

そうかあ。目の前にいる女の子が怪我をしたりさせられたりしたら、悲しいなあ。でも彼女の目標は革命なのです。仕方がない。

「その日には絆創膏を持っていくよ」

私がそう言うと、洞口さんは大きな声で、可愛い顔で笑っていました。

中核派として革命を目指す女子・洞口朋子インタビュー

取材・構成/姫乃たま
初出/実話BUNKAタブー2018年11月号

 

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