PR
PR

ダモ鈴木死去:ロマン優光連載278

連載
連載
PR
PR

ダモ鈴木は14才の時にヒッピーになり、高校中退後世界放浪の旅に出る。ある日、路上でギターを手に奇声をあげていたところを2人の男にスカウトされ、その日のうちに男たちのバンドのコンサートに参加することになった。その日のライブは観客同士の乱闘騒ぎが頻発し、警察沙汰になったという。

2人の男とはホルガー・シューカイとヤキ・リーベツァイト。ダモ鈴木が2人のバンド・CANに参加することになった顛末である。

ダモ鈴木は20才から23才までの間にCANのボーカリストとして、

『Soundtracks』(1970年)※前ボーカリストのマルコム・ムーニー時代の録音も収録
『Tago Mago』(1971年)
『Ege Bamyasi』(1972年)
『Future Days』(1973年)

という4枚のアルバムと後に発表されるいくつかの録音を残し、73年に脱退する。

CANは、シュトックハウゼン門下で既に若手現代音楽家として評価されスティーブ・ライヒとの共演経験もあるイルミン・シュミット(キーボード、その他)、同じくシュトックハウゼン門下のホルガー・シューカイ(ベース)、フリージャズ畑で活動していたドラマーであるヤキ・リーベツァイト(ドラム)、ホルガーがスイスの学校に音楽教師として赴任した時の生徒であり唯一人ロック〜ポップミュージックの知識があったミヒャエル・カローリと1人のアメリカ人実験音楽家によって1968年に結成された。アメリカ人実験音楽家はすぐに脱退し、アメリカ人彫刻家マルコム・ムーニーがボーカリストとして参加する。

PR

アカデミックな現代音楽教育を受けたメンバーや既にプロとして実績を積んでいたメンバーの中に、10才ほど年下で音楽家としての実績がないミヒャエルがメンバーに選ばれた時点で、このバンドは非音楽家の参加によって意図的にハプニングを持ち込み、新しい状況をつくる実験を意識していたのかもしれない。初代ボーカリストのマルコムもミュージシャンではない。そもそも、アメリカで産まれた新興ポップミュージックであるロック音楽のフォーマットを借りて、ドイツ人、しかもロックを知らないメンバーが演奏をするということ自体が実験だったのだろう。

タイトルとURLをコピーしました