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関ヶ原の戦いで過大評価されてる実際はショボい戦国武将17人

歴史
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天下分け目の戦いと言われるためか日本最大の合戦と思われている「関ヶ原の戦い」だが、実際はあっという間に決着がついた凡戦。そんなショボい戦で名を上げた武将も凡将いということで、関ヶ原で過大評価された武将の実態をお教えしよう。
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日本史きってのハリボテ合戦

「天下分け目の戦い」とされる関ヶ原の戦いは、1600年10月21日(慶長5年9月15日)に発生し、15万人が参戦した日本史上最大級の野戦(ということになっている)。豊臣政権内部の権力争いが原因の戦いで、徳川家康率いる東軍と石田三成が中心の西軍(総大将は毛利輝元)が、美濃国不破郡関ヶ原で激突しました。

戦闘当初は地形で勝る西軍が有利になるも、結果として東軍が勝利。その後石田三成ら西軍中心人物は処刑され、一方で家康は豊臣政権内の権力を完全掌握。3年後の1603年には江戸幕府が成立します。

しかし実は、関ヶ原の戦いの戦闘は「天下分け目の戦い」とは名ばかりの地味さ。まず戦闘自体が4~6時間ほどで終わったという時点で、どこが日本史上最大だって話です。戦国時代の代表的な野戦「姉川の戦い」が9時間であることを考えても短め。しかも一戦国大名同士ではなく、全国から10万人以上の兵力が集まることを考えると異例の短さ。まぁ10万人全員が戦ったわけでもなく、傍観者が多数でしたから。

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西軍総大将の毛利輝元が本戦開戦後も大坂城から出陣しなかった時点で、グダグダ。同じく西軍では島津義弘も「三成が嫌い」という理由で傍観。吉川広家に至っては三成から戦闘参加の催促に、「今、弁当を食ってるから」と答えはぐらかしたと話が後世に伝わるほど。

そんな訳もあり戦国時代の戦いにありがちな「〇〇戦法で破った!」的な、眉唾物の話もほぼなし。唯一後世に伝わっているものといえば、小早川秀秋の裏切りでしょう。西軍の小早川軍に家康が鉄砲部隊で攻撃し、裏切りを催促。びびった小早川軍は東軍に寝返り、これに端を発し西軍内部で次々と裏切りが発生。戦闘の趨勢を決した、いわば関ヶ原のハイライトです。

ただ、当時の史料を見てもそのような記述はなし。宣教師の記録に「開戦と同時に徳川についた」とする説もあれば、江戸時代の史料に、徳川方が撃ったものの「誤射」と釈明したとするものがあったりと、よく分からないのが正直なところ。ただ「鉄砲による裏切り」を補完する史料はほぼなく、否定する史料は見つかっているので、そういうことなんでしょう。

東軍の武将はだいたい過大評価

もちろん参戦した武将たちの活躍もお察し。

例えば本多忠勝。一般的には徳川四天王の1人で「家康に過ぎたるもの」とされた猛将。生涯57回の戦闘に参加し一度も傷を負わなかった逸話もあり、戦国最強の武将として語り継がれています。当然、関ヶ原でも大活躍したはずと思いきや、実際は軍監に任命され豊臣方との交渉を行ったりと裏方仕事がメイン。猛将のイメージとは程遠いですが、当時の忠勝は52歳。武士の平均寿命が42歳くらいなので、それを考えると立派な高齢者でしょう。戦闘終了後、撤退する島津軍を追撃する際に銃撃され落馬しているので、ただのヨボヨボのじいさんだった可能性も十分あります。

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一応、関ヶ原の戦いから約200年後に編纂された『寛政重修諸家譜』には忠勝が武功を挙げたという記述がありますが、所詮は江戸幕府が編纂したヨイショ史料なので。ネトウヨが帝國陸海軍を礼賛する本を作るようなもので、まぁウソでしょう。

ちなみに次男の本多忠朝も参戦していますが、刀がまがって鞘に入らなくなるほど奮戦したという、嘘っぽい話くらいしか残っていません。というか、どの本やWEBサイトでも「父譲りの~」と書いてあって、七光感が半端なく気の毒。

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