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関ヶ原の戦いで過大評価されてる実際はショボい戦国武将17人

歴史
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真田昌幸は「表裏比興の者」とされる戦略家で、徳川軍を撃退した第一次上田合戦(1585)などの活躍が有名。家康が生涯恐れた人物とされ、あの真田信之・信繁(幸村)の父でもあります。関ヶ原に急ぐ徳川秀忠と対峙し勝利をおさめるも本戦で西軍が敗退したため……と悲劇の武将扱いですが、昌幸が強いというより秀忠が雑魚というのが事実。

そもそも秀忠は関ヶ原に向かう途中を足止めされたのではなく、当時の史料の時点で「攻略後に上洛」という命令だったことがわかっているため、足止めなんて予想のうち。要は秀忠が手間取っただけのことが、後世に徳川アンチの手によって「大正義・真田が戦略で徳川に大勝利」と都合よく置き換えられたわけです。

主戦場で戦っていた武将たちに至っては、ロクな戦果もあげずに惨敗というのが事実。石田三成の盟友である大谷吉継はその代表です。九州征伐(1586)などで活躍し秀吉の天下統一に大きく寄与した武将ではあるものの、関ヶ原の戦いの時点では病気が進行し盲目&籠に乗せられた状態で参戦。この時点でただの足手まといですが、ロクな功績もなく小早川秀秋の裏切りで包囲され自害。小早川の裏切りに備え部隊を配備していた点は評価されていますが、その見張り部隊も小早川に呼応し寝返っているので……。大して人望がなかったのでは。

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三成の右腕で「治部少(三成)に過ぎたるもの」とされた島左近も功績がないので、その死に様が殊更に語られている典型。関ヶ原の前哨戦にあたる杭瀬川の戦い(1600)で奇襲も用い活躍した話は伝わりますが、肝心の本戦では西軍の敗北が決定的になると黒田長政の軍勢に突撃。銃撃を浴びて戦死しました。神風特攻スタイルなんて、ただのムダ死にですよね。

神風特攻スタイルといえば島津義弘もなかなか。西軍の敗北が決定的になる中、少人数を捨て駒にし敵中突破を図る「捨てがまり」作戦を決行。井伊直政らを負傷させたほか、無事に本国に帰還しています。これも、言ってしまえば玉砕で成り立つ、大日本帝国スタイル。ちなみに義弘の甥の島津豊久はこの撤退戦で戦死。切腹の覚悟を決めた義弘に「国家の存亡は公(義弘)の一身にかかれり」と語り、撤退を決心させたという「絶対創作だろ」的なエピソードが残っています。この時の島津の戦いぶりが勇猛だったため西軍なのに領地を没収されなかったと持ち上げるバカもいますが、シンプルに九州の端のクソ田舎が本国なんで「遠いからいいか」的なノリで見逃されただけです。

どうする家康がつまらないのも納得

他にも後世に持ち上げられただけで実は大したことない武将はいっぱい。

例えば東軍の黒田官兵衛黒田長政の親子。官兵衛は九州地方で戦い石垣城の戦いなどで勝利、一方の長政は本戦で小早川秀秋の寝返りに大きな役割を果たすなど一見は大活躍。ただ、実際のところ官兵衛は関ヶ原の戦いのどさくさにまぎれ九州を支配しようと考え、それが家康にバレるのを防ぐために息子を東軍に送り込んだだけでした。が、その息子の活躍で関ヶ原の戦いがすぐ終わってしまい、官兵衛の計画も破綻と……完全なムダ働きです。

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