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関ヶ原の戦いで過大評価されてる実際はショボい戦国武将17人

歴史
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忠勝と同じく、徳川四天王で活躍した扱いなのが井伊直政。幼少期に父親が今川氏真に謀殺されるなどしましたが、1575年に徳川家康に出仕。初陣となった芝原の戦い(1576)で武功をあげると、その後数多くの戦に参加。その勇猛さと全身に赤い甲冑をまとまっていたことから「井伊の赤鬼」と呼ばれることに。徳川四天王の中ではもっとも家康に愛され、1590年には家臣団最高の12万石の報償を受けています。

関ヶ原の戦いでは東軍の中心として軍監に任命され、豊臣方武将の引き抜きなどを担当。関ヶ原での戦いも、彼の部隊が放った鉄砲で幕を開けた……というとドラマチックですが、実際は先鋒を任された福島正則に嫉妬したから。もちろん、当時でも戦闘での抜け駆けはNG行為。一説によると「敵を見に行くだけ」とウソをついたという話も。しかも戦闘終了後に島津軍を追撃した際は、銃撃され足を負傷と、まるでいいとこなし。しかもこの傷が原因の1つとなり、徳川四天王最年少にもかかわらず翌年に死去。晩年、しょぼすぎませんか。

こんなやつに抜け駆けを許した福島正則は、元・豊臣恩顧。小姓として秀吉に使え「賤ヶ岳七本槍」のひとりになるなど武勲に優れ秀吉の天下統一を支えた武将で、秀吉の死後に三成と対立し、関ヶ原の戦いでは東軍に。

で、肝心の戦いでの流れは書いた通り。その上、明石全登隊の猛攻を受け一時退却するなど、やはりパッとしません。三成の影響を豊臣内から排除するため東軍に参加したはずが、活躍もできず結局豊臣も徳川から滅ぼされるので、結果から言えば徳川に利用されただけ。

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全然目立ちませんが、信長の弟にあたる織田有楽斎も参戦。昔からダメ武将の扱いですが、近年は再評価……ということもなく、相変わらず。敗色濃厚な中、単騎特攻してきた西軍の蒲生頼郷に「降参すれば?」と呼びかけ、激怒した頼郷に危うく殺されかけるなど、シンプルにバカ。結局部下が頼郷をとらえ、有楽斎に首を取らせてやったそう。それ、部下の手柄では。

関ヶ原の主戦場以外もショボすぎ。家康の幼少時代からの側近である鳥居元忠は前哨戦である「伏見城の戦い」で攻め手の石田勢4万に対し1000人で応戦。天井に血が飛ぶほどの壮絶な斬り合いの末に討ち死にした忠義の士扱いですが、結局城は落ちてて意味ないから。当時61歳と高齢だったので、変に生き延びて老害化する前に捨て石にされた感じが見え見え。

お次は東軍に与し、北の関ヶ原こと「慶長出羽合戦」で上杉軍と戦った最上義光。弱小国の出羽国を大国にし、「虎将」ともされる名将という扱い。慶長出羽合戦は上杉に押され、長谷堂城に籠城。本戦が早く終結&伊達政宗の援軍が来たので助かった運の良さはすごい。

同じく籠城してただけ枠として京極高次も。関ヶ原と同時に発生していた「大津城の戦い」で籠城をし、毛利元康らの軍勢を足止めしたとし、戦後に城を与えられるなど活躍。まぁ実際は城を破られ敵軍に捕縛、運よく西軍が超スピードで負けたので功績扱いに。

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西軍は死んだだけで名将扱い

勝者の東軍でこの有様なので、西軍はもうボロボロ。

唯一、手柄をあげたと言えるのが真田昌幸です。

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