変な髪型をした半裸の不思議な体型の大男たちが奇妙な儀式を行った後に掴み合う相撲というものは、子供心に不思議なものだったわけだが、年を重ねる中で相撲に関する色々なことを知っていくにつれ、本当に不思議な慣習に満ちた異世界のものだなという認識を強くしていった。
相撲というものは純粋な武道でもなく、純粋な神事というわけでもない。競技ではもちろんない。聖なるものかと思えば、俗世のもっとも俗な部分と深く関わるものでもある。それらが入り交じった不可解な存在。それが相撲だ。
そんな相撲に特化した神話的な体型の力士という名の男たちが世間と隔絶した価値観の中で生きていく異世界。それがゆえに畏敬の眼差しで見られるし、愛されてきた。
一方でかわいがりという名のリンチ・ハラスメント、八百長問題(とその背後の闇)が取りざたされることも度々あり、昨今は女性は土俵にあがれないという古くからの因習が疑問視されたり、現実世界の相撲には一般社会の常識とは隔絶した価値観を持つがゆえの問題が指摘され続けている側面がある。現実社会において、それらの問題は忘れてはならないものである。
そんな現実世界の相撲とは別に漫画を中心に育まれてきた相撲フィクションの系譜がある。『のたり松太郎』(ちばてつや)『うっちゃれ五所瓦』(なかいま強)『ああ播磨灘』(さだやす圭)『火ノ丸相撲』(川田)。型破りの主人公が相撲の伝統を実力でぶっ飛ばしていったり、相撲に異常な愛情を抱く主人公が周囲の人間をその情熱で巻き込みながら躍進していったり、相撲素人たちが正統力士たちに知恵と奇策で打ち勝ったり、数は少ないながらも読み応えのある作品が多くスポーツ漫画の一画を担ってきた。スポーツ漫画といったが、フィクションの中での相撲は不思議な伝統に覆われた純粋な競技であることが多く、現実の相撲とはまた別の世界観で成り立っている。一方でフィクションの世界では相撲を題材とした実写映像作品は漫画に比べて影が薄い。それはともかく、やくざ映画がやくざを単純に肯定し、その観客がやくざを肯定するものではないように、フィクションの中の相撲はあくまでフィクションであり、それが単純に相撲界の諸問題を肯定するものではないのは言うまでもないことだ。