しかし、官兵衛は自らの智謀を頼みすぎるところがあり、織田信長に謀反を起こした荒木村重を説得しようとして1年間牢獄に監禁されてしまうなど、自分のことを賢いと思っている人特有の脇の甘い部分があった。
本能寺の変で信長が死去した報せを訊いた際には、ショックで泣き叫ぶ秀吉に対して、冷静に「殿、御運が開けましたね」と囁いて、秀吉が天下獲りに近い立場にいることを伝えている。口が滑ったその結果、官兵衛の賢さと溢れる野心を秀吉は警戒するようにもなっていく。天下統一事業が進んでいくにつれて、秀吉は石田三成のような官僚たちを重宝するようになり、お役御免となった官兵衛は九州の豊後(大分県)に領地を与えられ、飛ばされている。
まあ、自らの賢さを隠すことができずに、ひけらかしたがってしまうところが官兵衛の限界だったのであろう。最後は秀吉に嫌われて損をしてしまったおバカ野郎なのである。関ヶ原の戦いの時にも九州で一旗あげようと画策したようだが、肝心の関ヶ原の戦いがわずか一日で終わってしまったため天下獲りのチャンスは与えられなかった。現代でいうと学歴アピールが痛い人という感じか。
黒田官兵衛の家来だったが、その息子の長政との折り合いが悪かったために、黒田家を飛び出して浪人することになったのが後藤又兵衛基次だ。晩年には、豊臣方に請われて、大阪城に入場し、豊臣方の一大将として大阪冬の陣や夏の陣で采配をふるっている。
その采配の見事さから「摩利支天の再来」と称されたり、徳川家康からも十分に警戒されていたようだが、豊臣方の劣勢を跳ね返すような力はもちろんなく、乱戦のなかで討ち死にしている。結局、浪人の立場から敗北必至の豊臣方に参陣したというだけで、判官びいきの一部の歴史通から評価されているのに過ぎない存在だ。
黒田官兵衛とともに「両兵衛」と称され、秀吉の草創期を支えたのが竹中半兵衛重治。「信長の出仕要請を拒否して無名時代の秀吉に仕える」、「自分を馬鹿にした主君を見返すために稲葉山城を数少ない手勢で占拠」など歴史マニアが好きそうな伝説的な逸話の持ち主だが、これらはほとんど後世の創作によるものが多く、信憑性が低い話も多い。
病弱だったために36歳の若さで亡くなったが、早死にしたことで伝説的な存在にされただけなのだろう。実際は大したことのない人物だったはずだ。早死にするとなんか天才に見えるものだ。 武将としてよりも、茶人・千利休の門弟の利休七哲の1人として有名な古田重然。
