大坂夏の陣の際には、徳川家康のいる本陣まで決死の突撃をおこなったことで「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」などと評価され、決死の真田勢を前に家康も自害を覚悟したほどだったとか。
信繁の活躍は、その後も講談などで取り上げられたことで現在まで伝えられているが、これは「二代将軍の秀忠の関ヶ原での遅参を誤魔化すために真田親子が名将のほうが都合が良い」という徳川幕府側の特殊な事情によるところが大きい。所詮は徳川家の引き立て役に過ぎないのだ。40歳を超えてから花開いたのも、いかにも日本人が喜びそうなエピソードだ。
戦国時代最強の戦上手と言われた島津氏の17代当主とされ、薩摩藩の藩祖となった島津義弘。朝鮮に出兵した際には、泗川の戦いで約3万の明と朝鮮の連合軍を相手にして、わずか7000の兵で圧勝。その鬼神ぶりから「鬼石曼子(グイシーマンズ)」として朝鮮や明軍から恐れられたという。
関ヶ原の戦いの際には、西軍側に加わることになるが、上方に動員できる兵力が少なかったため1000人ほどしか引き連れていくことができなかった。そのため石田三成ら西軍首脳陣から軽視され、自らの提案した作戦をたびたび却下されるという悲惨な目にあい、本戦の際には戦わずにひたすら撤退する羽目に陥っている。少ない兵士で勝ったというより、少ない兵士しか派兵できない器なのだ。こうした振る舞いを見ていると、戦だけには強かったものの、日々変化する中央の政治情勢に疎い一面を否定できない。
本多正信は家康裏切る嫌われ者
家康の知恵袋としてその創業を助けたのが謀臣として活躍した本多正信だ。元々、家康の家来だった正信は、三河での一向一揆の際に一揆側につくために徳川家を出奔。その後も各地を放浪した末に家康に帰参を許されている。鷹匠あがりだった正信は、戦での手柄がないため、徳川四天王のような武将たちからは忌み嫌われる存在だったようで「腸の腐った奴」、「味噌塩の勘定で出世した奴」などと呼ばれていたようだ。
実際、合戦ではビビりだったらしく、関ヶ原の戦いの際に西軍方につく武将が多いことを知ると、上方に向かって攻め入るのではなく、徳川家の本拠の関東地方に籠って戦うというショボい作戦を提案している。
