漫画『へうげもの』の主人公としても知られているが、千利休の後継者として茶の湯を大成し、茶器や建築、作庭などの様々な分野で「織部好み」と呼ばれる流行をもたらしている。茶人としての評価は高く、家康や秀忠に対して指導したほどだったようだが、肝心の戦国武将としての評価は最低で、自らが支配する領地はわずか1万石ほど。
大阪夏の陣の際には、付き合いの深い豊臣方との内通を疑われたため、戦後に切腹させられているが、わずか1万石の身代ではどの道何もできなかっただろう。
籠城しただけの真田昌幸を評価
毛利元就の三男で、豊臣政権では五大老にも名前を連ねていた小早川隆景。 兄の吉川元春とともに「毛利の両川」として元就亡き後の毛利家を支えた智将として知られているが、実際には敗北寸前のタイミングで信長が滅んだため、代わって天下を獲った秀吉に媚びへつらったことで延命に成功しただけである。
関ヶ原の戦いで西軍を裏切って東軍についた小早川秀秋を自分の養子として小早川家に迎えるなど、西軍の総大将だった毛利輝元が窮地に立つ機会を作ってしまってもいる。小早川家を断絶に導いた秀秋の無能っぷりを見抜けなかったようでは智将扱いすることは到底できない。むしろどちらかというと戦犯である。
池波正太郎の小説『真田太平記』などの影響から戦国一の智将としてファンも多い真田昌幸。
元々は武田信玄の家臣だったが、武田家滅亡後に地方の小勢力ながら独立。その後は、北条氏や徳川氏、上杉氏などの大勢力の間を巧みに遊泳しながら、生き残ることに成功し、豊臣政権下でも所領を安堵されている。
真田昌幸が戦上手と持ち上げられるのは、天下を統一する徳川家康を上田合戦でやぶり、関ヶ原の戦いでも東軍の別動隊だった徳川秀忠勢を足止めさせることに成功したからであろう。
一見その戦功は華々しく見えるが、所詮は信濃の地方大名に過ぎず、天下の趨勢に何か影響を与えたわけではない。所詮ホームで戦っていただけにすぎない。
そもそも昌幸は、どちらの戦いでも攻め手の徳川勢を相手に、自分の居城の上田城に籠城して戦っただけ。攻める側が10倍の兵力が必要な城攻めで、相手を数回撃退しただけのことを自慢されても鼻白むだけである。自分と次男の信繁が西軍側につきつつ、長男の信之だけは東軍側に味方させるなど、ちゃっかりと保険を掛けるセコい人物でもある。
昌幸の次男の真田信繁(幸村)も、劣勢の豊臣方に忠義を尽くして、大阪冬の陣や夏の陣で、奮戦した人物として知られている。
