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銭湯で見た絶望的な世の中での明るい光:適菜収連載11

連載
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腐った世の中が近代大衆社会の末期症状であるなら、根源的な治療は不可能だ。しかし、それでも自分にとって身近な場所を守ろうとすることには意味がある。

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11回:銭湯で見た絶望的な世の中での明るい光

「とかくこの世は住みにくい」と夏目漱石は言ったが、今もなにも変わらない。これを近代大衆社会の病の末期症状と考えれば、根源的な治療は不可能だし、対処療法でごまかすのは限度があるし、結局、あきらめるか、自己欺瞞を続けるか、イワシの頭のようなものを信じるしかなくなってくる。だから、絶望し、投げやりになっているほうが人間としてはむしろ正常なのだ。

鶴田浩二ではないが、何から何まで真っ暗闇である。すじの通らぬことばかり、右を向いても左を見てもばかと阿呆のからみあい。「最近の若者はマナーがなっていない」と今も昔も老人は言いがちだが、マナーがひどい老人も多い。

某所に比較的きちんとした酒場があった。そこの常連の大学教授は「この店は民度が高いな。こういうパブリックな場は、ロンドンと東京の一部にしかないよな」と昔よく言っていた。しかし、「その場」が成立したのも、一時的なもので、今では帽子をかぶりながら酒を飲んでいる奴もいれば、カウンターの上にバッグを置く奴すらいる。漱石が言うように、日本の近代が外発的なものである以上、近代的な個人も所詮真似事としてしか成立しなかったのだろう。

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誰もが絶望している世の中。そんな中、先日少し明るい光が見えた。

銭湯に行っても、マナー違反の客が多い。浴槽で顔を洗ったり、浴槽にタオルを入れたり、特にひどいのになると濡れたタオルを絞ったりする。子供が浴槽で泳いだり、潜ったりしているのに、目の前にいる父親は注意をしないどころか一緒になって遊んでいる。

脱衣所に店員の青年がいたので、少し話をした。

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