1回:国家とはなにか、国民とはなにか
ナショナリズムに関する文脈でよく言われるのが、「国家」自体は目に見えないということである。国土は目に見えるが、国家は概念にすぎない。「リアリズム」という言葉で有名な、ドイツ出身の国際政治学者ハンス・モーゲンソーは『国際政治』で、こう述べる。
《国家それ自体は、明らかに経験的なものではない。したがって国家それ自体をみることはできない。経験的に観察できるのは、国家に属する個人だけである。それゆえ国家は一定の特質を共通にもっている多数の個々人から抽象されたものであり、この特質こそが個々人を同一国家の構成員とするのである。(中略)したがって、われわれが、ある国家の力や対外政策について経験的な言葉で述べる場合には、同じ国家に属する一定の個々人の力や対外政策を出しているのにすぎないのである》
アメリカの政治学者ベネディクト・アンダーソンは、『想像の共同体』で《国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体である》と定義した。国民は確固として存在しているのに、《イメージ》である理由は、誰も「全国民」を見たことがないからだ。われわれは一生涯のうちに、大多数の同胞を知ることも、会うこともない。
こうした「国家」「国民」を生み出す近代特有の原理がナショナリズムである。私なりにナショナリズムを定義すれば「資本の要請に従い、世界を概念、数字に分解し、再構成する原理」といったところか。国家は民族や前近代的な共同体を解体し、人間を個に分断し、それを再び人為的に統合した。近代は質的に平等なネイション(国民)を創り出す必要があったからだ。
それが機能不全を起こせば、人々は分断され、公共という概念も破壊されていく。近代国家としての日本の凋落を日々目の当たりにしていると、今後、「国家とはなにか」という問題があらためて問われていくようになると思う。
『国際政治』の冒頭には、「日本語版への序文」から「改訂第五版への序文」まで七つの序文が記載されているが、面白いのは、モーゲンソーが自分の書いている簡単なことを誤読するバカがいると何度も書いていることだ。
《読む前に話したがり、知る前に判断したがる人びとに対して、私はモンテスキューが『法の精神』の読者に宛てた次のような訴えをここでお目にかけなければならない》
モンテスキューは、少し読んだだけで20年の仕事を判断せず、片言隻句ではなく本の全体見てから是認するなり否認しろと言っている。たしかにSNSにはウェブ記事の見出しだけを見て発狂する奴もいる。普通の日本語が通じない人が増えたような気もする。単にそういう人がネットなどで可視化するようになっただけなのかもしれないが、「近代の崩壊」が近づいてきているようにも見える。われわれは「国民」をイメージできなくなってきた。
写真/『モーゲンソー 国際政治–権力と平和(上)』(岩波文庫)
初出:実話BUNKAタブー2023年8月号
PROFILE:
適菜収(てきな・おさむ)
1975年山梨県生まれ。作家。大衆社会論から政治論まで幅広く執筆活動を展開。『日本をダメにした新B層の研究』(K Kベストセラーズ)『ニッポンを蝕む全体主義』(祥伝社新書)など著書多数。