野中広務がコツコツ築いた
沖縄との信頼関係と辺野古移設
米軍普天間飛行場の返還問題は、1995年の米兵による少女暴行事件をきっかけに県民の怒りが爆発し、翌96年、日米両政府がSACO(沖縄に関する特別行動委員会)合意でようやく全面返還の方針を打ち出したところから始まりました。
もっとも返還といっても、県内に代替施設を建設する「県内移設」が大前提。この面倒極まりない調整役を一手に引き受けたのが、小渕内閣の官房長官で沖縄問題担当を務めた野中広務元自民党幹事長でした。
野中は98年から沖縄開発庁長官も兼務し、振興予算をせっせと積み増しながら県側との信頼関係をコツコツと築いていきます。頭ごなしに移設を押しつけるのではなく、沖縄に寄り添う低姿勢の交渉を粘り強く続けた結果、99年には名護市辺野古への移設について、ひとまず地元の理解を得るところまでこぎつけました。政界を退いた後も自民党沖縄振興委員長としてこの問題に関わり続けたのですから、まさに「沖縄に人生を捧げた」と言っていいでしょう。
しかし2009年、この長年の地道な積み重ねを一瞬で台無しにしてくれる男が颯爽と登場します。当時民主党代表だった鳩山由紀夫です。
悪夢の民主党政権が
沖縄基地問題A級戦犯
2009年7月19日、まだ総選挙の勝敗すら決まっていない段階だというのに、鳩山は沖縄市内の集会でよせばいいのに「最低でも県外移設」とぶち上げてしまいます。8月の衆院選で歴史的政権交代を果たし、9月には晴れて首相の座に就いた鳩山でしたが、この公約、そもそもアメリカ側への根回しなど何ひとつしていなかったというのですから恐れ入ります。
結局、県外に移設先など都合よく見つかるはずもなく、鳩山政権は迷走に迷走を重ねた末、10年5月にあっさり辺野古移設回帰を表明。鳩山本人も「最低でも県外」を撤回し、翌6月には責任を取って辞任する羽目になりました。
後年、県外移設を断念した理由に挙げていた「抑止力」についても「方便だった」とご本人が白状している始末で、要するに思いつきで沖縄県民を散々振り回しただけ、ということのようです。
もちろん、これで話が済むわけではありません。「もしかしたら基地は県外に行くかもしれない」という、ありもしない期待を煽られてしまった沖縄県民の民意は、もはや後戻りできないところまで暴走してしまいます。
翁長県政で盛り上がった反基地の
賞味期限が終焉となった県知事選
その象徴が2014年11月の知事選です。かつて自民党沖縄県連幹事長として辺野古移設を推進する側にいたはずの翁長雄志・前那覇市長が、なんと一転して反基地を掲げる「オール沖縄」の旗手として出馬し、現職の仲井真弘多を破って初当選を果たしてしまいます。自民党からすれば、身内の裏切り以外の何物でもないでしょう。
