こうした男女比の偏りについて、「入学者が男女同数になるように調整すべきでは?」という声は30年近く前からあるのだが、「女性差別である」として男女の偏りを調整することはタブーになっている。男子より女子のほうが2倍近く大学に進学するなど男性差別以外の何物でもないと思うのだが、大真面目に「女性優遇を是正するのは女性差別」とされてしまうのだ。
いま日本でも国公立を含む名門大学が次々とAO入試枠を拡大させているが、このトレンドが進行すれば間違いなく日本でも大学教育の「女性化」が進んでいくだろう。自国の教育政策のお粗末さを海外から秀才を輸入することで補える英米とは違い、自前の才能を育てることに失敗すれば即未来がなくなるのが日本の教育機関だ。英米の轍を踏んで大学教育の女性化を進める日本の未来はかなり危ういと言わざるを得ない。
超女性優遇社会の行き着く先
先進国における女性優遇政策は、無論のこと教育分野に留まらない。役員昇進におけるアファーマティブアクション、刑事司法における量刑の軽量化、離婚裁判における親権の不平等性、兵役をはじめとする危険作業の不平等性など例をあげればキリがない。紙幅の関係から高等教育に議論を絞ったが、日本を含む先進国では「既に女性差別は存在しないのに女性差別撤廃政策は次々と拡充される」という形で女性優遇社会が到来している。
しかし、女性優遇社会はどのような結果をもたらすのだろう。女性が男性以上に社会進出し、男性は大昔の女性のように家事や育児に従事するという社会が到来するのだろうか。どうもそういうことにはならないらしい。というのも、「女の園」と化した産業が次々と崩壊しているのだ。
その筆頭は先にあげた大学だ。いまアメリカのビジネス界では応募資格に「大学卒業」を求めない企業が急増。その流れは官公庁にまで広がっている。学士や修士などの「学位」は提供できないものの、実践的な知識を提供する民間の技術スクールが次々と設立され、男子学生はそうした学校で技術を身に付け、GoogleやAmazonを含む超有名企業に採用される例も珍しくないほどだ。