第19回:蛭子さんの名物編集者・手塚能理子
かつて『ガロ』の編集者として80年代絶頂期の蛭子さんの代表作となった単行本の数々を世におくりだした手塚能理子さん。その手塚さんが昨年10月に亡くなった。
90年代後半に青林堂から離れ創業者である長井勝一の意志を受け継ぎ青林工藝舎を立ち上げ事実上『ガロ』の後継誌である『アックス』を創刊。それからもずっと蛭子能収を最も知り尽くし漫画家としての蛭子さんを陰で支えた幾人かの編集者の中心が手塚さんであった。
とにかく全ての編集者の中で蛭子能収にとって最も縁の深い編集者だった。現在発売中の『アックス169号』はその手塚能理子さんの大追悼特集で巻頭にみうらじゅん+根本敬による笑いの絶えぬ追悼対談。
それから『ガロ』時代からの大御所やゆかりのあった方々の思い出話やコメントが何ページも続く。
だが、何かが足りない。誰かがいない。既に亡くなった方ならともかく生きていてしかもすこぶる元気で毎日3食食べおやつやコーヒーも飲んでシアワセでたっぷり余裕を持って(あ、周りの人たちは知りませんよ、少なくとも本人は)生きていながらもそこにたったひとりのその人物の名前はおろか一言のコメントすらないのがどうにも残念だ。
言うまでもなくそれは手塚さんと最も親しかった漫画家の筆頭にいる蛭子能収であった。訃報を知ったときにすぐこちら側に連絡をくれたのは奥さんで、当の蛭子さんはさて?
多分「テツカさん? 誰やったっけ」と奥さんから聞いてそう答え、まもなくその知らせそのものも忘れてしまったかと推測する。
ちなみに最後に2人が会ったのは3年前。青山のギャラリーで開催された「蛭子能収最後の展覧会」のころ。その展覧会の絵を描くため蛭子さんは青林工藝舎に2カ月のあいだ何度も通ったのだが、手塚さんを手塚さんだと気づいて「あれ? テツカさん?」と言って「そうだよ!」という会話が交わされるまで5回かかったのであった。
いずれにせよ、現在の蛭子さんの頭の中で手塚さんはどうなっているのか分からない。手塚さんは手塚さんで亡くなる少し前、意識が混濁するようになった頃夜遅く私に電話をかけてきて開口一番こう言った。
「今日夢に蛭子さんがでてきたんだけど。これって蛭子さんが『まだこっち(あの世)』に来ちゃ駄目だってことだと思うんだよね」
それに対してさすがに「いや、蛭子さんは認知症だけど死んでないよ、元気だよ」とは返せなかった。余談ですが。
私の知る人に名前に「能」という字がつくのは手塚さんと蛭子さんのふたりだけである。数年前スマホの機種変更をしたとき、連絡先の「電話帳」を移し替えてもらったとき。数百人はいる他の人たちの名前はそのまま正確に移しかえられたというのに、何故か「能」のつくふたりだけは違った。
蛭子能収は「蛭子・博」に、手塚さんは「迫搦q手塚」となっていた。なぜかは分かりませんが不思議です。
そういえばちょっとした不思議なことは手塚さんが亡くなった後しばらく続いた。新たに『アックス』の編集長となった高市真紀さんに手塚さんから業務連絡のメールが度々届いた。他にも手塚さんからメールが届いた作家も数名いるらしい。さらに。『アックス』作家陣による追悼展覧会が決まったあと会場であるビリケンギャラリーの方の携帯に手塚さんからの着信記録が残っていたそうである。お礼を言いたかったのだろうか。
