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インタビュー 漫画喫茶暮らしから作家デビュー異端の作家・赤松利市とは?

赤松利市 インタビュー
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アメリカで見た差別と民主主義

赤松の生涯は波乱に富んでいる。香川県で、のちに大学教授となる父の元に生まれ、小学校時代にはアメリカで2年を過ごす。大学卒業後に大手消費者金融に入社し、将来を嘱望されるも、燃え尽き症候群で退社する。その後、ゴルフ場の芝生を効率的に管理するシステムを考案し、ビジネス特許を取得。自ら会社を興して独立し、最盛期には年収3600万円を超えたという。

「独立したのはバブル崩壊後でしたが、コストカットを求めるゴルフ場の需要に応えて、商売が軌道に乗りました。羽振りの良い時は一晩で100万円使ったこともある。赤坂のショーパブの白人ダンサーを5人ほどハプニングバーに連れ出して、興奮する男たちの姿を見ながら、横目でニヤニヤしていたこともあります。今思うと本当に最低な男です」

その後、仕事も家庭も破綻した赤松は、復興バブルにひかれて東北に移り住み、作業員となる。だが、最終的に仕事に行き詰まり、全てを捨てて、所持金わずか5000円で東京・浅草へと流れ着く。

そんな赤松の原点には、子供の頃に過ごしたアメリカでの体験があるという。

「東部のワシントン州の、大学のある町なのでリベラルでしたが、それでもアジア人への差別はありました。当時、アメリカに進出していたトヨタやソニーについて現地の友人に自慢すると『日本企業なわけがない』とバカにされ、悔しい思いもしました。そんなこともあったから、日本の商船に翻る日の丸を見て、涙を流す愛国少年でしたよ」

だが、そんな赤松が余計にショックを受けたのは帰国して目にした日本の姿だった。

「日本に帰ると、日本人がアメリカのことをありがたがっている。当時、有色人種への差別があった南アフリカが日本を『名誉白人』として扱っていましたが、日本人はそれについて『黄色人種だが自分たちだけは名誉白人として扱われている』と歪な優越感を抱いていた。でも私は白人の実際の認識が『白人とそれ以外の色付き』という2種類だと身に染みて知っていたので『何も知らずに名誉白人扱いで浮かれててバカらしい』と思っていました」

その一方、アメリカで成熟した民主主義を体験することもあった。

「一度クラスの級長に選出されたんです。でも級長は星条旗に宣誓しないといけない。だから勇気を出して『それはできない。私を級長にするなら星条旗の代わりに日章旗を揚げてくれ』と言いました。するとクラスメイトも提案を理解してくれて、子供たちだけで議論した結果『日章旗を揚げることはできないから、星条旗に宣誓するための副級長の役職を作ろう』という話になった。この時『アメリカは凄い』と思いました」

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