鮫島伝次郎。戦前は戦争に反対する中岡一家を非国民としていじめ抜いた軍国主義者の町内会長であり、原爆投下時にゲンに命を救われたのにもかかわらず、崩れた家の下敷きになって炎に巻かれそうになっているゲンの父・大吉や進次を見殺しにして、さっさと逃げ出す。戦後は終始戦争に反対していたと大嘘をこきながら転身し、県議員にまで成り上がる。漫画史上類を見ない不快な男であり、ここまで憎たらしい奴が他にいるのだろうかと思わせる、戦後日本を象徴するような卑劣漢である。そのクソさはネットミーム化するほどであり、ゲンを読んでない人でもXなどネット上で彼の画像をみたことがある人は多いのではないだろうか。結局、たいしてひどい目に遭わず、のうのうと生きているのが本当に腹立たしい。
戦争や原爆によってもたらされた悲劇の数々を鮮烈に描いている漫画であり、そこが魅力となっているのだが、それだけでは小中学生には辛すぎてついていけなかったであろう。子供たち、特に男の子の心をひきつけたのは隆太を中心としたピカレスク・バイオレンス・アクション漫画としての側面だ。
少年アウトローである隆太はたびたびヤクザたちと凄惨な抗争をしており、そのワイルドなバイオレンス描写が読者の心をひきつけた部分は絶対にある。ちなみに少年時代のゲンたちが活躍した時代、同時期には、広島では映画『仁義なき戦い』シリーズのもとになった広島抗争が起きており、連載時には『仁義なき戦い』シリーズが大人気であった。
隆太の仲間の一人・ムスビはビタミン罪だとだまされてヒロポン中毒にされ、最後はヤクザのリンチによって非業の死を遂げるのだが、覚せい剤のおそろしさをこの漫画で知った子供も多いだろう。隆太がヤクザたちを拳銃でブチ殺してムスビの仇を討ち、ゲンの説得で新天地を求め恋人である戦争孤児仲間の勝子と共に東京へ旅立つのだが、こういう展開の漫画が多くの小学校の図書室においてあったのはすごいことだなと思う。
こういったバイオレンス展開を除いても、ゲンたちはけっして品行方正な良い子ではなく、生きのびるために様々なことにチャレンジしていくし、その中には不法行為も含まれている。そのバイタリティーたっぷりな描写も本作の魅力の一つである。
左派に育つわけがない
ジャンプでの連載終了後以降の展開では作者・中沢啓二の昭和天皇批判・旧日本軍批判・反米といった考えがよりストレートに打ち出されており、作品の「左派」的な「思想的な偏向」を問題視した保守・右派によって学校図書室からの撤去をもとめるような活動がされている。広島市教育委員会は、それまで10年間市立小学校3年生向けの平和学習教材「ひろしま平和ノート」に掲載されていた『はだしのゲン』を23年度から削除することになったことを発表したが、これもそういった動きの影響があるのではないかと考える人もいる。広島市教育委員会の公式の発表は別の理由をあげている。
こういった内容の作品が子供に思想的影響を与えることを懸念(そういった主張の含まれる作品の存在自体が気に食わないというのもあるだろう)しての活動だろうが、実際に『はだしのゲン』は読んだ人にどれだけの思想的影響を与えているのだろうか?