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米山隆一が、意見が違う相手を「レイシスト」と決めつける「リベラル」な人々に思うこと

社会
川口市役所新庁舎
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もしそれが、文字通り、一切の線引きを認めず、あらゆる差別を本当にゼロにしようと思っているなら、実のところこの素敵なお姉さん方ばかりが並んでいる、『実話BUNKAタブー』も大きな変革を迫られることになります。容姿、年齢どころか、性別についてすら一切の差別はいけないのですから、日本/世界に住む老若男女誰であれ、希望者は全員載せなければならないという、全然趣旨の違う雑誌にされてしまいかねないからです。

それどころではありません。何となれば貴方が好みのお姉さんのページ「だけ」を見ることだって考えようによっては「容姿差別(ルッキズム)」ですから、老若男女、好きでも嫌いでも全てのページを差別なく平等に見ることを強制されるという、無茶苦茶なことにすらなりかねません。それはもう「好み」、「個性(モデルさんの個性も読者の個性も)」というものの否定であって、個人の個性や好みを尊重し、多様性を認める本来のリベラルという在り方と、真逆になってしまうと私は思います。

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勿論、「そんな馬鹿なことを言うな。好き嫌いと差別は違う。雑誌くらいは許される好き嫌いで、差別じゃない」と言うのは簡単ですが、「いや、ではテレビは、どこからどう見ても、日本人女性の平均的容姿では全くない、偏ったタイプの容姿の人だけを『女子アナウンサー』として採用していますが、あれは差別ではないのですか?」「いやいや、男性アナウンサーだってイケメンばかりではありませんか?」等々と言われたら、一体全体どこで好き嫌いと差別の線を引くのか判断に窮することになります。

その時誰かどこかの偉い人が、「雑誌は自由に買えるから好き嫌いだけど、テレビは公共の電波を使うから差別だ」と決めて、その決定に全て従えというのなら、それもまた個々人の判断を尊重する本来のリベラルという在り方と、真逆になってしまうように思われます。

結局そのような在り様は、不適切と思われるものを「許されない差別」と定義して、「許されない差別は許されない」という、トートロジー(同語反復)を述べているにすぎません。そんなことをするよりも、「差別には程度がある。程度に応じた対応をし、特に程度を越したものは、許されないものとして対応する(公的に対応する)」とするほうが、ずっと簡潔で一貫していると私は思います(程度の判断はまずは現場で、最終的には裁判所や役所が行うことになります)。

権威主義的になっている「リベラル」な人々

以上の通り、「差別はいけない」という、戦後教育を受けた多くの人があまり疑うことなく信じているテーゼについても、よくよくその中身を考えてみると、どこで線を引き、どこからを差別と言い、それぞれにどのように対応するかを具体的に決するのは、そう簡単ではないことが分かると思います。

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