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米山隆一が、意見が違う相手を「レイシスト」と決めつける「リベラル」な人々に思うこと

社会
川口市役所新庁舎
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で、タイガースファンが仲間内でジャイアンツファンの悪口を言うくらいは好き嫌いの問題で何の問題もありませんし、一杯飲み屋の親父さんが、タイガースが負けた日に「ジャイアンツファンお断り!」とかいう看板を出すのは感心しないなりにギリギリ許容範囲かもしれませんが、(そんなことは絶対しないでしょうが)タイガースが負けて不機嫌になった市役所の職員が、「ジャイアンツファンには住民票を出しません!」とか言ったら、それは許されない差別になります。

しかし、だからと言って、「差別の元となっているタイガースファンの『ジャイアンツファンはいけ好かない』という思いをすべて消し去らなければならない!」などと言って、本当にタイガースファンが100%ジャイアンツファンと共感できるようになったとしたら、その人はもうタイガースファンではありません。

人は、何かの集団(タイガースファン)に属し、その帰属意識を自己のアイデンティティの重要な一部としています。だからこそ、その裏返しとして、集団外の人に対して一定の反感を覚え、時にそれが差別意識を生みます。だから差別をして良いということでは全くありませんが、いくら「差別はいけない」と言っても、その原因となる感情の全てを取り去ってしまったら、それは個人のアイデンティティの喪失にすらなりかねないのです。

こんな風に「小泉進次郎と私」「タイガースファンとジャイアンツファン」という例えを使っていると、「ふざけているのか!」「差別を軽く扱うのか!」と批判をされそうですが、この例を、「男性と女性」「日本人と外国人」「東洋人と西洋人」のように広げて考えても、本質は変わりません。

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これまた卑近な例で恐縮ですが、アメリカ留学当時、安月給の留学研究者が多く住むアパートに住んでいた友人は、日本人仲間の間では「隣がインド人で、1日中カレーの臭いで困っちゃうよ(多分相手も日本人が隣で1日中味噌臭くて困ると思っていたと思いますが)」と言って笑っていました。

その程度なら「好き嫌い」で済むでしょうが、仮に彼が働いていたハーバード大学の学長が、入学式の場とかで「私が学生の頃、ドミトリーで隣が日本人で1日中味噌臭くて大変だった。今となってはいい思い出だが」などといったら大問題の差別発言で、辞任騒動に発展するでしょう。

差別感情は、その人の好みやアイデンティティ、帰属意識の裏返しとして、それを持っていない人に対して、ある種自然発生的に様々な程度で生じ、様々な程度で表出されます。問題は、時と場合に応じて、それを社会的に相当な範囲にきちんとコントロールすることだと私は思います。

「差別ゼロ」が引き起こす多様性と真逆な社会

さて、ここまでは私の自説に過ぎないので、同意する、同意しないは、勿論これを読んでいる方の自由です。しかしまあ、素敵なお姉さん方が溢れるページを読む誘惑に打ち勝って(読み終わって)、この記事をここまで読み進めて下さっている方々は、少なくとも「そう無茶を言っている訳ではないな」という程度には、ご同意いただけているのではないかと思います。

問題は、「反差別」を高らかに掲げる「我こそはリベラル!」と言う方々が、そういう主張を、一切認めず、「差別はゼロにしなければならない! 全ての差別と闘わなければいけない!」と頑なに叫び、「差別をゼロにすると言わない奴はレイシストだ! 政治家失格だ!」とおっしゃられることです。

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