長曾我部方の谷忠兵衛が立て籠もる阿波の一宮城を攻めた際には、谷に対して和議を申し入れる。その席でわざと自軍の作戦を明かし、城が落ちる前に降伏すれば長曾我部の本領の土佐一国は安堵すると約束。秀長の提案を訊いた谷は、主君の長曾我部元親を説得し、結果的に降伏させている。
これは秀長の大きな功績として、四国平定を効率良く進めたエピソードであるかのように言われているが、結果的に長曾我部方がビビッて降伏を決めたから良かったものの、相手にわざわざ自らの戦略を明かすという余計なことをしているとしか思えない。もし長曾我部方が徹底抗戦を志向した場合には、従来の作戦ではなく、新たな戦略のもとで戦わざるをえなかったはず。そのリスクをまったく考えていない無能野郎だと言えるだろう。
秀長は、戦国時代に、統治が難しい国として知られる紀伊(和歌山県)の平定も秀吉から任され、足かけ5年ほどで平定している。
しかし、この時は天正14年(1586年)7月に、奥熊野の地侍が蜂起する「熊野一揆」が発生。秀長方の泊城が攻撃され、秀長自ら出馬している。最終的には平定したものの、この合戦でも秀長軍は最初の戦いで敗れたようで、やはり武将として無能だったことがうかがえる。
豊臣一族が秀吉の没後、急激に衰退していった理由としては、秀吉が子供に恵まれなかったり、後継者として見られていた秀次の一門を虐殺するなどしたため、男性の血縁関係者が少なかったことが挙げられる。
案の定、弟の秀長も後継者を残すことはできなかった。長男の与一郎は若くして早世。その後、姉のともが生んだ秀保を娘の婿として迎えているが、その秀保も、秀長の死去から4年後に、15歳の若さで亡くなっている。
武将たるもの、しっかりした後継者となれる男児をたくさん作ってこそナンボの時代。秀長はこの点でも秀吉と同様に無能だったのである。
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温厚な性格だと言われる秀長だが、無能なだけでなく兄の秀吉譲りの残酷なエピソードの持ち主でもある。
とりわけ酷いのが秀吉が中国攻めの際におこなった、三木の干殺しと、鳥取の渇殺しと言われた敵方を徹底的に兵糧攻めにする戦法だ。秀長はどちらの戦いにも参陣し、秀吉の指示のもと、たびたび三木城攻めに駆り出している。
