三木の干殺しとは、別所長治が籠城する播磨の三木城攻めの時に軍師の竹中半兵衛の案で用いられた作戦だ。
兵士やその家族、浄土真宗の門徒など地域の領民も含めて約7500人ほどが立て籠る三木城に対して、豊臣方は城に通じる補給路を全て遮断。
その結果、別所方は、城内に生える草木すら食べ尽くすような悲惨な状況になり、餓死者が続出するなかで、城主の別所一族の切腹を条件に降伏している。
鳥取の渇殺しは、毛利氏の重臣・吉川経家が城主を務める鳥取城を攻めた際の作戦。こちらも三木同様の兵糧攻めだが、三木城攻め以上に策をこらしたものだった。
周辺の米を高値で買い占めるだけでなく、城内の兵糧が早く減るようにと、付近の農民たち2000人を城内へと追い立てて、立て籠る人数が増えるように仕向けている。
こうした作戦で、城内の兵糧はすぐに底を尽き、わずか4カ月で餓死者が続出。城内では餓死者の肉を食らう者も現れるほどの、まさに地獄絵図が繰り広げられていたという。これのどこが温厚な性格なのか。むしろ秀吉と並ぶかそれ以上の残虐非道な性格といったほうがしっくりくる。
秀吉のサポート役として温厚な良識人として取り上げられる秀長だが、政治家としては吝嗇家(ケチ)で、冷酷な一面を持っていた。
その象徴的な例が、秀長の領国の大和・紀伊・和泉で行われていた町人に対する金銀や米銭の貸し付けの制度化の「ならかし(奈良貸し)」である。
この「ならかし」は単なる商取引ではなく、秀長の大名としての権力のもとで行われた強制的な貸し付けであった。商人たちを通じて貸し付けが行われたが、高利の返済に追われた町人たちは非常に苦しんだという。
厳しい取り立てによって、町人が商人を殺害したり、自殺や一家心中に追い込まれる事件も起こっている。
秀長は蓄財家の一面もあって、亡くなった時には莫大な財産を遺している。金子5万6000枚余りが二間四方の部屋に積まれるほどで、銀子は何万貫あるのか見当もつかないほどだったという。もし、この遺産を現在の価値に換算すると、金子5万6000枚余は約2億7000万円、銀子は約31億7000万円相当と推測できる。
