第16回:蛭子さんに「芸術家らしさ」を感じたとき
前号では「芸能人らしさ」を蛭子さんに初めて感じたときのことを書きました。今回は「芸術家らしさ」とか何だかんだいってもエライのであろう先輩漫画家なんだと蛭子さんに感じた数少ない思い出を記します。
昨年の秋に青山のAkio Nagasawa Galleryで「蛭子能収最後の個展」というキャンバスにアクリル絵の具で描いた絵の展示を行なったとき。蛭子さんの漫画のファンや芸能人蛭子のファンなどとにかく「普段こんな青山の画廊なんか来ない」という人たちが沢山集まった。蛭子さんも私も20年ぶり、30年ぶり、中には40年ぶりという人もいた。とにかく懐かしい人、なかなか会う機会がない人たちに会えたのだ。
その中に蛭子さんの高校時代同じ美術クラブにいたという女性がいた。
その方によれば、蛭子さんは美術部で中心的な存在で、何らかの賞に応募してはそのたびに、蛭子さんがこのコンテストならこういう作品で応募すれば入賞できると予想して、皆さんでその通りに作品制作し、結果当時の美術部は長崎県下で度々賞を受けたそうだ。三度の飯より好きなギャンブルは大抵外れたが、高校美術部参加の絵画展では読みを着実に当てていたそうだ。
|という話は本人からボケる前に聞いた覚えがあるが、今回書きたいのは次のことだ。
「人づきあいは時間の無駄」「友達はいらない」と他人との付き合いはどうでもよいと生き方本やその流れのインタビューで散々言ってきた蛭子さんだが。
実はその高校の美術部員たちとはしばしば「同窓会」をひらき認知症になる以前までよく会っていたというのだ。
ちょっと意外だったが、もっと驚いたのはその同窓会の時に皆さんと一緒に撮った記念写真である。
ズラッと並んだ皆さん60代の後半の頃だろうか。
皆さんイナカでカタギの仕事についてその年まできた、とにかくカタギのヒトたちである。
そこに都会に出て漫画家、イラストレーターそして芸能人として生きてきた蛭子さんが入ると、何だかその写真の中にいる分には他のカタギで普通にちゃんとした生き方をしていたヒトの中ではやけに際立って、見ようによってはカッコよく見えてしまったのだ。映えていたと言ってもよい。
