秀吉から「タネ違い」と叱責
NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』で主人公として描かれる豊臣秀長。強烈な上昇志向の持ち主である秀吉を、陰から支えた温厚な常識人の印象が強いが、このキャラは小説やドラマの影響で流布しているだけで、史料的な根拠に基づいたものなどではまったくない。
そもそも豊臣秀長とは、どのような人物だったのか。その無能でクズな実態を紐解いていこう。
秀長は秀吉の3歳年下の異父弟だったという説もあれば、同じ父親だったという話もある。
幼い頃は小竹と呼ばれ、秀吉とともに織田信長に仕えるようになると、小一郎と名乗っている。ちなみに「秀長」を名乗るのは天正12年(1584年)からと比較的晩年で、それまでは「長秀」を名乗っていたと言われている。信長の在世中には、木下小一郎長秀として仕えていたようだ。
秀長が秀吉の弟として織田軍の一員となり活動し始めるのは、秀吉が北近江に割拠する浅井長政を滅ぼした功績によって、長浜城の城主となった頃からだ。
その後は、秀吉の中国攻めなどに従軍し、少しずつ功を立てていく。この頃から武将としての任務を与えられ、最終的には、大和・紀伊・和泉の3カ国を統治する大名になり、豊臣政権の柱石となっている。 秀長がその生涯のなかで、もっとも手痛い一敗を喫したのが、天正7年(1579年)の秀吉の中国攻めで別所長治の配下の武将・淡河定範の守る淡河城を攻めた戦いだ。
この時、秀長は、天然の要害に築かれた淡河城の周囲に付城を築くが、知将として知られた淡河定範は「淡河は油断している」との流言飛語を自らふりまいて、城の周囲に馬房柵、逆茂木、車菱などや、落とし穴を備えて豊臣方に柔軟に応戦している。
さらに淡河は、奇策として牝馬の群れを豊臣方に放ち、秀長軍の先鋒の騎馬隊の牡馬を興奮させて、大混乱に陥らせる。その結果、秀長軍は大敗を喫した。
牝馬を放たれるだけで大敗するのだから、指揮官としては十分に無能と言えるだろう。
信長の没後、秀吉が天下の覇権をかけて柴田勝家と争った賤ケ岳の戦いにも秀長は参戦している。
この戦いで秀長は、秀吉の不在時に木之本陣の守衛を任されている。
