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北条義時は策略と暗殺で権力を手にした世紀の極悪人

歴史
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こうして時政は自分の孫である千幡を実朝として、3代将軍に就任させることに成功した。この頃には13人のうちの安達盛長と三浦義澄が病死していたため、合議制は解体しており、実朝が12歳という若さだったこともあり、時政が幕府の実権を握ることになったのである。

その栄華がまさか、自分の息子である義時によって潰されるとは思いも寄らなかったであろう。

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友を殺して父を失脚させる策士

自分の孫である実朝が将軍となって実権を握った時政は満足であったが、時政の後妻だった牧の方としては、実の娘ではない政子の子どもが将軍なのは面白くない。自分の息子の政範が将軍になればいいのに……と思っていた矢先に、政範が病で急死。それならば、娘の婿である平賀朝雅を将軍にしようと画策していたところ、その朝雅と畠山重保という武将がケンカしたという話が舞い込んできた。 牧の方は時政に「朝雅にケンカを売ってきた畠山重保には謀反の疑いがあるわ。そうなると親も謀反の疑いがあるってことだから、畠山親子ともども、謀反人だから成敗して!」と言ってきたのである。 畠山重保というのは鎌倉幕府創業の立役者であった畠山重忠の息子で、母親は時政の先妻の娘。つまり時政にとっては娘婿と外孫になる。

後妻を取るか、先妻の娘婿と外孫を取るか。さあ、どっち?……後妻でしたー。 時政は畠山討伐の軍勢を挙げる。大将はもちろん義時。幕府軍に敵うわけないのだから、重忠としては逃げることもできたのに小勢でも勇ましく立ち向かったという。残念ながら畠山氏は滅亡。こうしてまた有力御家人の1人が消された。

「畠山重忠の乱」。

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