渋沢栄一がこれだけ商売を拡大できたのは、日本初の商業銀行である第一国立銀行(現在のみずほ銀行)を創立し、自ら頭取をつとめたからです。新しい産業の育成に銀行が大きな役割をはたすのは、現代も近代も変わらないんですよ。
だとすると、なぜ渋沢栄一は銀行を設立することができたのでしょうか。それは新政府で近代的な金融システムをつくり、米国の銀行制度をモデルに国立銀行条例を制定した黒幕こそ、渋沢自身だったからです。つまり、銀行設立という国策のスキームをつくった本人が、そのトップとして銀行に天下ってボロ儲けしたわけですよ。これはほぼ竹中と同じやり口です。渋沢は政商として財を成した薄汚い商人だったんです。
大蔵省人脈を特権的商売に利用
そもそも、渋沢栄一と竹中平蔵はともに特権階級の閨閥とはまるで縁のない家の出身です。
大河ドラマで描かれた通り、渋沢栄一は埼玉の農家の出身で、竹中が生まれたのも和歌山市内の履物屋にすぎません。 その2人が政府中枢に深く入り込み、政商としてボロ儲けすることができた裏には共通する理由があります。それは「海外仕込みの最先端の知識」と「財務省(大蔵省)人脈」です。渋沢栄一と竹中平蔵は、ともにこの2つを武器に政商に成り上がったんですよ。
いつの時代でも、政治家というのはビジョンや調整能力が問われる仕事で、専門的な知識があるわけでも物事のスキームをつくれるわけでもありません。そこで必要となるのが政策を立案する能力と実務能力をもつブレーンの存在です。 渋沢栄一は京で一橋慶喜(徳川慶喜)の腹心と知り合って幕臣となり、パリ万博使節団の一員として西欧で資本主義を徹底的に研究します。その知識に目をつけて大蔵官僚にスカウトしたのが大蔵卿(現在の財務大臣)の大隈重信でした。前述の国立銀行条例はこの大蔵官僚時代につくったものです。そして最終的に渋沢は政府内で大蔵大臣に出世するのでははなく、政府の国策に乗じて儲けることを選択したわけです。