「日枝さんが抜擢されたのは鹿内さんのイエスマンだったから。キレ者と言われた鹿内さんの命令を着実に遂行することで成功したんです。また鹿内さんの横で独裁の手腕をつぶさに見ており、これが後に自分のイエスマンばかりを引き上げる独裁体制につながったのでは」(フジテレビ関係者)
鹿内・日枝のコンビによって80年代のフジテレビは快進撃を遂げる。それ以前のフジは日テレやTBSの後塵を拝していたが、「楽しくなければテレビじゃない」を標榜する「軽チャー路線」を拡大し、バラエティ番組を中心に黄金時代を築いたのだ。
そして最大の転機が訪れる。88年、鹿内春雄が急死して春雄の妹・厚子の夫だった鹿内宏明がグループの代表取締役会長職を引き継いだ。しかし宏明は先代に輪をかけたワンマン体質で、強引な経営手法や人事に加え、会社の資産を私的に流用していた疑惑などが浮上し、フジ社内でも鹿内一族支配への不満が膨れ上がっていた。この新体制でナンバー2の副社長に就いた日枝を中心に反鹿内派がクーデターを起こし、鹿内社長を追い落とすことに成功したのだ。
「日枝は羽佐間重彰産経新聞社長と共にグループ幹部や関連企業株主の支持を取り付け、取締役会で多数派となって鹿内宏明社長を退任に追い込み、自身が新社長の座に収まりました。一連の鹿内排除の裏ではあの週刊文春に情報を流して鹿内批判を展開させるなど協力関係にあったのは、今となっては皮肉ですね」(前出・週刊誌記者)
着々と根回しを進めていた日枝は、鹿内一族の影響力を完全に排除し日枝体制を確立。日枝は2000年まで社長を務めたのちに会長・相談役となり、現在に至るまでフジサンケイグループ内での権力を保持し続けることになった。
「クーデターによってフジサンケイグループは鹿内家のオーナー企業から経営者主導の健全な企業へと生まれ変わったはずでした。しかし現実は鹿内一族の支配から日枝個人が権力を握るいびつな体制に変わっただけ。追い出した鹿内が作った社内統制システムをそのまま引き継いだようなもので、この体制が続いたことが今のフジ凋落の遠因になったと言えるでしょう」(前出・フジテレビ関係者)
フジテレビを掌握した日枝は97年にフジテレビを東証一部に上場させ、08年にはフジサンケイグループの事業持株会社となっていたフジテレビジョンを認定放送持株会社に移行。日枝はフジ・メディア・ホールディングスとフジテレビジョンの代表取締役会長兼CEOとなった。17年には役職を退き両社の取締役相談役に就任したが、その後も依然として実権を握ったままだった。
支配と人脈が権力の源泉
こうした経歴を見ればトップに立てた理由は理解できるのだが、それでも38年という長期間にわたってメディア企業のトップに居座るのは尋常ではない。日枝の権力の源泉は一体どこにあるのだろうか。
日枝が権力を保持し続けられた一番の要因は徹底した社内統制と派閥支配によるものだといわれている。