「個人の性的好奇心を満たす目的による児童ポルノへの『需要』に歯止めをかけない限り、『供給』の根絶は困難であること」
この一文に、高市の思想の核心が凝縮されている。つまり、高市の発想は「欲望を持つこと自体が悪」なのだ。実際の行為ではなく、心の中の欲求を犯罪の温床と見なす。所持という行為そのものを取り締まることで、需要=欲望を抑え込もうとする。この論理は、表現の自由にとって極めて危険だ。なぜなら、創作物もまた「欲望」を喚起するものになるからだ。
高市はさらに、単純所持禁止への賛成理由として、こう記していた。
「ロシアを除くG8諸国では単純所持を禁止する法制度が整備されており、韓国も最近禁止した」
国際的動向を持ち出して規制を正当化する。「他国がやっているから日本もやるべき」という論理で、反対意見を封じ込める、これは当時から高市が使っていた手法だった。その思考は、今も変わっていない。25年5月、高市は自民党の治安・テロ・サイバー犯罪調査会会長としてスパイ防止法に関する提言をまとめ、「諸外国と同水準」の法整備を主張した。
「外国政府勢力によるスパイ活動について規定し、監視し必要があれば逮捕するもので、主要国では整備されている」
08年の児童ポルノ法改正での論法と、まったく同じだ。高市にとって「国際標準」とは、自らの規制を正当化するための道具にすぎない。
「みんなやっているのだから、日本もやるべきだ」
この単純な同調圧力こそが、高市の思考パターンなのである。
だからこそ、高市は状況に応じて平然と立場を変えるだろう。今やその創作物を愛好するオタク層が、自民党の重要な支持基盤になっていることを知っている。彼女にとって重要なのは、思想でも理念でもない。どの層が拍手するか、ただそれだけだ。ゆえに、創作物を「守る」とも「規制する」とも、その場の空気次第で言い換えるのだ。支持が得られるなら、かつての敵すら利用する。これが高市早苗の政治的本能である。
その文脈で読むと、赤松健の「法律の範囲内で、表現の自由はしっかり守っていく」という言葉の意味もはっきりする。これは、自由を保障する約束ではない。むしろ「法律の範囲を変えれば、自由の範囲も変えられる」という宣言に等しい。赤松が「言質を取った」と誇るその一文こそ、法を作る側がいつでも自由を狭められる。つまり「自由を国家の都合で定義する」ことを容認した発言である。結局のところ、高市にとって「自由」とは国が貸し与える許可証のようなものに過ぎないのだ。

現在は参議院議員の漫画家、赤松健の代表作『ラブひな』(講談社コミックス)。
オタクが高市に従順な理由
高市の支配欲が、もっとも露骨に現れたのが2016年の放送法問題である。当時、高市は総務大臣として、テレビ局が「政治的に公平でない」放送を繰り返した場合、電波停止を命じる可能性に言及した。「表現の自由」を尊重する立場からすれば、あり得ない発言ではないか。
だが彼女にとっては、表現も報道も彼女が考える「国益」と「公平」の名のもとに統制できる対象でしかない。このことは、高市の「自由」が支持を集めるために、都合よく使い分ける記号にすぎないことを示している。
