明徳野球部・部長が少女売春容疑で逮捕
1984年7月、明徳義塾の野球部長(当時37)が、同年7月、明徳のエースを視察にきた駒澤大学の監督を高知市内で接待。このとき、部長は飲み食いにくわえ、知人の暴力団関係者を通じて16歳(!)の少女を用意。「大人の接待」を企画する。
部屋に戻り少女の存在に驚いた監督が帰るように促したが、少女が「朝までの約束になっている」と言ったため、朝まで一緒にいた…というのが、事の顛末。
明徳は84年春・夏と甲子園に連続出場を果たしていたが、部長は翌年春の大会前に逮捕され、出場が確実視されていた85年センバツの推薦を辞退。また、この事件では少女を斡旋された駒大の監督にも「何もしないで朝まで一緒にいたというのはおかしい」と疑惑の目が向けられた。
沖縄初出場の首里高は甲子園の土を海に捨てさせられた
大会40回を記念して、初の1県1代表が採用された1958年夏の大会。46都道府県とともに、アメリカ統治下にあった沖縄県の予選大会が開かれ、戦後初めて、沖縄代表として首里高校が甲子園に出場した。まだ、沖縄の人が本土へ渡るにはパスポートが必要だった時代のことである。
首里は初戦で福井・敦賀と対戦したが、当時の沖縄高校野球は全国レベルには遠く、わずか3安打、13三振を喫して0対3で敗退。ナインは甲子園の土を袋に詰め、沖縄へ持ち帰ろうとしたが、植物防疫法に引っかかり、那覇港の税関で甲子園の土を没収され、検疫官によって海に捨てられてしまった。沖縄が外国(アメリカ領)であることが理由だった。
この出来事を知った、当時、日本航空のスチュワーデスだった近藤充子さんが、石なら防疫法に引っかからないということで、甲子園周辺の海岸の石を桐の箱に詰め、首里ナインに寄贈。石は首里高校の校庭に建てられたモニュメント「友愛の碑」の台座部分に埋め込まれている。
2008年に沖縄県勢が甲子園初出場50年目を迎えると、その記念に、当時の首里高校を題材にした漫画『ハイサイ!甲子園 ~島人が燃えた1958年~』(はいさいこうしえん)が、『ビッグコミックオリジナル』(小学館)に連載され、のちに単行本(全1巻)にもなった。
勝ったのに校歌を歌えず甲子園を去った滝川二
試合終了後に勝ったチームが校歌を歌うのは恒例行事だが、1988年の夏の大会1回戦で高田(岩手)に勝利した滝川二(兵庫)は、校歌を歌うことができなかった。
滝川二vs高田がおこなわれたのは、大会3日目の第3試合。降雨の中でのプレイボールだったが、5回あたりから雨が次第に強まり、滝川二が9-3と6点リードで迎えた8回裏、滝川二の追加点のチャンスの場面で試合中断。11分の中断後、降雨コールドが宣告された。コールド宣告後は、両校の主将が握手を交わしただけで、大会本部は「雨の中、整列させての校歌斉唱は選手の健康上良くない」との理由で校歌斉唱や校旗掲揚を省略。
滝川二は2回戦の東海大甲府(山梨)戦で敗れたため、結果的に校歌を歌えないまま、甲子園を去るハメに…。校歌斉唱が始まった1957年からの歴史の中で、勝利チームが校歌を歌えなかったのは史上初の出来事だった。これを受けて、同日の『熱投甲子園』の冒頭では、滝川二の校歌が流された。
その後、滝川二が甲子園に出場したのは1996年のセンバツ大会。1回戦で秋田(秋田)に勝利した滝川二ナインが歌った校歌は、実に8年越しの校歌だった。