星陵・松井に5打席連続敬遠甲子園に飛び交った怒号と「帰れ」コール
甲子園の歴史を振り返る上では、欠かせないのが、この出来事。当時、“10年にひとりの逸材”と言われた、松井秀喜を擁する星陵(石川)と対戦した明徳義塾(高知)は、馬淵史郎監督の指示によって、松井を5打席連続敬遠。3ー2で勝利したものの、大会の目玉であった松井の打席を観られなかった観客は大激怒。外野スタンドからは物が投げ込まれ、明徳の校歌斉唱時には「帰れ」コールが巻き起こるという前代未聞の騒動となった。
この試合で松井が受けた5打席連続敬遠は、高野連が急遽記者会見を開くなど、社会問題に発展。馬淵監督は試合後、『高校生の中に一人だけプロの選手が混じっていた』とコメントしたが、明徳宿舎には脅迫電話が相次いだ。
結果的に、このことで伝説を残した松井は、のちに「あれがあったから今の僕がある。感謝している」と大人の発言。
東海大山形がPL学園に史上最多29得点を奪われる屈辱的敗戦
甲子園において数々の記録を打ち立てた、桑田&清原のKKコンビ最後の甲子園となった1985年夏の大会。2回戦(初戦)で、そのKK擁するPL学園と対戦した東海大山形は、PLの猛打に遭い、ともに甲子園史上最多となる毎回32安打、29得点(毎回得点も史上初)を許しての歴史的大敗を喫する。
最後は、ファーストの清原にまでマウンドに上がられる屈辱的な敗戦に、「我が県のスポーツはこのままでいいのか」と県議会でも取り上げられ、山形県は全国初の野球振興基金を設立した。
また、当時、東海大山形のエースだった藤原安弘はのちに、書籍『四番、ピッチャー、背番号1』の中で、右肘が壊れたままPL戦に臨んでいたことや、試合後に精密検査を受けた結果、剥離骨折していたことを明かしている。まさに満身創痍でPL相手に投げなくてはいけなかった藤原はさぞかし無念だったはずだが、それもまた甲子園のドラマ。
ちなみに、この大会でのPLのメンバーは、1番センター内匠政博(近鉄)、3番セカンド松山秀明(オリックス)、4番ファースト清原(西武)、ピッチャー桑田(巨人)、内野の控えに今久留主成幸(横浜)という、とても高校生の単独チームとは思えない豪華ラインナップ。この顔触れのすごさを思えば、東海大山形の大敗にも同情してしまうというものだ。
「負けたのは末代までの恥」開星・野々村監督“ハラキリ”発言
2010年春のセンバツ1回戦で向陽(和歌山)に1対2で敗れた開星(島根)の野々村直通監督(当時58)は、試合後、「21世紀枠に負けたことは、末代までの恥。もう野球をやめたい。死にたい。腹を切りたい」と発言。
さすがにこの発言が世間で問題視され、翌日、野々村監督が会見。涙ながらに釈明、謝罪したが、光沢のあるシルバーのスーツに黒シャツ、襟元は極彩色のネクタイに、足元は白いエナメルシューズというヤクザ顔負けの出で立ちだったことで、「不適切だ」「あれが謝罪に来る格好か」と、またしても世間から大バッシングを浴びてしまう。
結局、野々村監督は騒動の責任を取って、“ハラキリ”発言の3日後に辞任。しかし、保護者、卒業生を中心とした復帰運動などもあって、11年4月にちゃっかり監督に再就任した。まったくもって懲りないオッサンである。