そう考えると、戦前の市井の囲碁需要の中にはギャンブル要素も含まれていたわけで、暇潰しの対象の流行がより簡単に脳に成功報酬を与えられるパチンコに移行したという解釈やそれをパズドラと並べる視点は共感できるが、知的ゲームである囲碁からギャンブルであるパチンコに移行したと言い切れるかどうかはよくわからないと思った。
碁とパチンコの話は情報の解釈の問題にすぎないが、そういったものとは別に不思議に感じたところもある。例えば、90年代に女性にブームだった趣味に関する知識や技術を学ぶカルチャー教室に対する批判と現代のオンラインサロン的なものに対する批判が、市井の人がアカデミアではない場で知を得ようとしていることに対しての知的エリートからの批判であるという点で似ているという解釈をしている。しかし、オンラインサロン的なものに対する批判は自己啓発セミナー批判に連なるものであったり、そこで与えられる情報の妥当性に関するものもあり、同一線上に並べるのは単純化しすぎ(本人もオンラインサロンにはファンダム的な問題などもあるという点は言及しているが)ではないかという気もする。ただ、三宅氏が言及しているような面もあるわけで間違っているわけではない。
趣味にしても全身全霊で取り組む必要はないという主張の際、「にわか」という言葉が出てきたのにも違和感があった。別に趣味に全身全霊で打ち込むコアなオタクになる必要はなく、「半身」で趣味を楽しめばいいという主張はわかる。自分もそうだと思う。だが、それはライトファンとか形容されるべきもので「にわか」という言葉がここで出てくるのは違和感があった。ただ、全身全霊をかけて趣味を追求する必要は必ずしもない、ミーハーで全然かまわないということだと考えれば、意味は通じる。ただ、文章の流れの中でジャストな表現であるかはよくわからない。
ただ、こういう不思議に感じた部分に関しては『花束みたいな恋をした』を念頭において考えるとわかってくるところがあるように感じる。
麦くん的なものが揶揄されることへの反発
偶然出会った大学生・麦と絹。2人は文化的な趣味の共通性に運命を感じて付き合ようになり同棲までするが、やがて就職した麦は文化的なものを楽しむ余裕がなくなるほど仕事に追われ、2人の会話も合わなくなり、気持ちのスレ違いが続き、別れてしまう。
『花束みたいな恋をした』のストーリーをざっと説明するなら、こんな感じだろうか。自分はこの映画に関して次のような原稿を書いている。
この中で、「魅力的な作品であると同時に、観る人によって全く違った光景が見えてくる不思議な映画でもある。ある人にとっては素敵な悲恋を描いたラブストーリーだし、ある人にとってはまぬけな若者たちの滑稽な失敗を描いたコメディであり、ある人にとっては何事にもあさはかな若者たちの愚かな恋愛を描いた残酷ショーでもある。見る人の年齢や恋愛経験による部分もあるが、作品中の二人が好む文化を表現するために選択されたものの絶妙さや、それに対する二人の接し方に対してどのように感じるかによって、受けとる印象が変わってしまう部分が大きい」と書いているが、観る人によって違う解釈が生まれる奇妙な作品だ。