自己啓発本に対する言及を見てみると、
『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』と『花束みたいな恋をした』:ロマン優光連載288
自己啓発書は「ノイズを除去する」姿勢を重視している。
ノイズのなさ。これこそが自己啓発書の真髄なのだとしたら。
(『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』Kindle版 P141)
ノイズのなさ。これこそが自己啓発書の真髄なのだとしたら。
(『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』Kindle版 P141)
前述したように〈行動〉を促すことが自己啓発書の特徴だとしたら、自己啓発書が売れる社会とはつまり、ノイズを除去する行動を促す社会なのである。
(『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』Kindle版 P141)
(『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』Kindle版 P141)
ノイズという言葉を使って表現されているが、それを「余計なことを考えないように思考停止状態に誘導」というふうに、いやもっと強く攻撃的な言葉を使って表現することだって可能なのではないかと思うが、三宅氏はそういった表現はとらない。
自己啓発本が流行るのは現代の日本社会自体の構造に原因があり、それを必要とする人がでてくるのは仕方がないことだ。自己啓発本に書かれている内容を必ずしも肯定的にとらえているわけではないし、現状の社会のあり方を肯定的にとらえているわけでもないが、この状況の中でそれを必要としてしまう人たちを頭から否定することはできない。そういう分断が生じるようなことは好ましくない。
そういった考えが根底にあり、強い言葉の使用や頭ごなしの否定を避けた表現をしているのだろう。
全編を通して、そういった姿勢を強く感じる。
賭け碁
ほんとに大したことではないのだが、気になったところがあったので、少し触れてみる。
この本の中には1950年代におきたパチンコブームに触れ、パズドラ(『花束みたいな恋をした』の主人公・麦くんでお馴染みのあれ) とパチンコを並べて考察している部分がある。若いサラリーマンや労働者の中の戦前だったら囲碁を娯楽として楽しんでいたタイプの人間が戦後はパチンコや競輪に向かっているという坂口安吾の作品の記述を引用して論を進めているのだが、それについて囲碁からギャンブルに移行したと解釈していると思われる記述がある。
戦前の市井における囲碁の享受のされ方の中には賭け碁というものがある。安吾作品を例にとっても、自身が席亭をつとめる碁会所では賭け碁を禁じたということが書いてあり、賭け碁が横行しているからこそ禁じられたわけである。賭け碁というものは町の碁会所ではわりと当たり前のことだったようだ。