〈生きているうちに父と会うことは、もう二度とないだろう。父だけではなく、妹達や弟とも10年以上顔を合わせていないし、連絡もとっていない〉
折しも、その3週間前、一茂が〈会うことはない〉とする茂雄は皇居で行われた文化勲章の親授式に出席していた。その傍らには、三奈が付き添っていた。
長嶋家に一体、何が起こっているのか——。
「見城氏から連絡を受けた編集幹部のうち、最初に手を上げたのが、『週刊文春』でした」
そう明かすのは、別の出版関係者である。同誌は多くの記者で「長嶋家取材班」を結成し、「長嶋一茂が明かしたミスターと絶縁13年 生きているうちに会うことは二度とない」という大特集記事(12月16日号)を展開したのだ。その内容を補足しつつ、長嶋家の〝いま〟について紐解いてみよう。
野球選手として大成せずの長男
今やテレビコメンテーターとして盤石の地位を築いた一茂だが、その道程には紆余曲折があった。立教大を卒業した一茂が、父と同じプロ野球の道に進んだのは1988年のこと。〝長嶋家の長男〟は、鳴り物入りでヤクルトに入団し、ドラフト1位という金看板を背負って注目を浴び続けた。
スポーツ紙記者が解説する。
「ヤクルト時代から一茂は鳴かず飛ばず。常に父と比べられるという重圧に苦しみ、それを払拭するかのように自己流の筋トレばかりに励むように。結局、野球にとって決して必要のない筋肉をつけることでますます技術力に陰りが出てしまうというジレンマに陥っていました」
だが、その才能を評価する声も皆無ではなかった。例えば、元中日の落合博満は一茂との対談で「本当に練習しなかった。もし練習していたら父親を超えていた」と述べている他、ヤクルト監督(当時)の野村克也は「いい物を持っているため練習では良かった。でも、褒めると駄目だった」と語っている。