また、米軍関係者に対する小野田らによる殺傷の記録は確認できず、小野田が30名以上殺したと言っていた内訳は、実際のところ武器を持たない民間人が大半である。
1974年に『週刊現代』で連載された小野田の手記「戦った、生きた」(『わがルバン島の三十年戦争』と改題され単行本化)のゴーストライターの津田信による暴露本『小野田少尉との三ヵ月「幻想の英雄」』には、小野田による残虐で理不尽な殺人について本人が語ったことが描かれている。また、住人に対する差別意識があるような発言も多く記録されている。
また、2004年におこなわれた作家・戸井十月による小野田へのインタビューが記録された『小野田寛郎の終わらない戦い』では、終戦後に小野田が殺害した人間について後になって後悔したことはないのかという内容の質問に「ないですね」と小野田は答えている。
当時の敗戦という事実に対する誤認によって引き起こされたということはあったとしても、客観的には凶悪犯罪であり、「軍人」として職務に忠実であったから後悔の念はないというのは、ちょっと違うような気がするのだが。
『小野田寛郎の終わらない戦い』では銃を持ってきたものには遠慮しない、相手に気付かれなかったら攻撃しなかったと語られているが、『小野田少尉との三ヵ月「幻想の英雄」』ではそれと矛盾することを語っていたことが記されており、津田と小野田の間にいさかいが生じていたことから、全てをそのまま受け取ることはできないが、事実として武器を持たない民間人が殺害されている。
また、小野田自身は自分たちへの討伐隊が存在したという主張をしているが、実際はそのようなものは組織されておらず、フィリピン軍のレンジャー部隊の訓練が行われたことがあっただけで、地元警察とやりあっていただけのようである。
これらの「犯罪」は日本との外交的な関係を重視した当時のマルコス大統領によって恩赦が与えられ、日本政府は「見舞金」と称して3億円をフィリピン政府に送ったという。
本当は終戦を知っていたのではないかという疑惑
小野田に関して帰国当時から言われていたのが本当は終戦を知っていたのではないかという疑惑だ。
小野田はゲリラ戦要因養成学校である陸軍中野学校二俣分校(徴兵前は中国で民間の貿易会社の支店で働いており、徴兵後に合格した久留米第一陸軍予備士官学校卒業後に中国語、英語が堪能であるということで選ばれた)で教育を受けており、そこで出来るだけ生きて任務を果たすことを教えられたこと。
ルバング島配属にあたり、横山静雄中傷から玉砕せずに何年かけても任務を遂行するという命令をうけたこと。
軍人は上官の命令に従うのが絶対であり、上官が任を解くまで行動は終了しないという信念。
そういったことが29年間のゲリラ活動につながったという。
