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日本兵のほうの小野田さん:ロマン優光連載368

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住民との間にトラブルを重ね、投降した際に復讐されることを恐れて出てこられなくなっていたのではという説は昔から言われていた。筆者もそうではないのかと思う。

最初は本気で任務を果たそうとしていたのだろう。仲間もいたし心強かったのもあるだろう。住民とのトラブルで投降しにくい状況が生まれても、仲間と共に投降しない理由を見つけては正当化にはげむようになり、仲間が死ぬ度に復讐心が高まり(帰国後もそういった発言がある)、一方で相手からの報復に怯えるようになる。

小野田が負けず嫌いでプライドの高い男であることは本人の発言の端々からうかがえる。

見下している相手、復讐心をもって憎んでいる相手に屈することはできないだろうし、プライドを保ったまま、身の安全を確保して投降する理由を求めていた時にたまたま鈴木青年が島を訪れたのではないだろうか。

そして、帰国後もその欺瞞を取り繕いつづけたのではないか。

2014年、津田信の息子であるライターの山田順が一つの手記を発表した。小野田と共にある邸宅で缶詰になっていた父に着替えを届けた際に、小野田の背中を風呂場で流すことになり、そこで「小野田さん、戦争が終わったのを知っていたんですか?」と質問したところ「そうだ」と答えたという。

小野田は保守の活動家としての側面を持ち、日本を守る国民会議代表委員、日本会議代表委員、「田母神論文と自衛官の名誉を考える会」の発起人をつとめたが、少なくとも天皇を無条件に尊んでいたということはなかっただろう。

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小野田寛郎の終わらない戦い』で小野田は二俣分校では天皇機関説を教わったり、命を捧げる対象は天皇でも政府でも軍部でもなく日本民族であると習ったと語っている。

帰国後も天皇に戦争責任があるとしており、これは次兄である格郎が小野田発見以前に語っていたことと同じであるという。石原莞爾に影響を受けていた格郎は虚実を交えた自分語りをする人物でもあったが、帰国間もないころの小野田の発言、大東亜共栄圏構想、八紘一宇といった理想は勉強嫌いで剣道に明け暮れていた小野田が22歳くらいでそういう思想的教養を身に着けていたとも思えず、帰国後に格郎から受けた影響が大きいのではないだろうか。

『小野田寛郎の終わらない戦い』で自分は人に求められた自分になるタイプという意味のことを語っていた小野田。

強烈な個性の持ち主なのにどこか実態をつかみにくいのは、単に自己欺瞞とかいうことではなく、人から期待されるであろう自分像を演じてきたからなのかもしれない。

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