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川田龍平と反ワクチン:ロマン優光連載321

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実際のところ、英国のものは既に過ちが指摘されているものであるし、浜松市の件は統計としての稚拙さが指摘された科学的エビデンスとしてなりたたないものである。

当然ながら、このことについて指摘を受けるし、コミュニティノートがつけられたポストもあるのだが、基本的に自分を応援するようなポスト(コミュニティノートを罵倒するようなものもある)をRPするだけで、彼が取り上げたデータの内容を説明したり、内容の再確認をするような行動は現在(12月2014時)のところ見受けられないようだ。

川田氏は90年代のいわゆる「薬害エイズ事件」に関する裁判(HIV訴訟)の原告の一人であった。血友病治療のために処方された非加熱輸入血液製剤によってHIVウイルスに感染したことを母からつげられたのが1986年、10才の時だったという。

製薬会社・株式会社ミドリ十字が非加熱輸入血液製剤の危険性を知っていながら、1985年に安全な加熱製剤が承認され供給が十分可能になった後も回収せずに販売を続け、厚生省も危険性を知りながら回収を命じなかったことから、被害が拡大した。また、血友病治療の権威として知られ、厚生省エイズ研究班の班長を務めていた安部英・帝京大学医学部長が当初は非加熱製剤廃止の方針だったはずが非加熱製剤の使用継続を認めるように変化したこと、このことに関する他の医師の発言を封じるように圧力をかけていたについては、ミドリ十字に対する配慮があったのではないかと指摘されている。

ミドリ十字が患者の安全より利益を優先したこと、医学者の判断ミス、厚生省の不手際によって被害が拡大した薬害事件である。

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1993年に裁判の原告の一人となり、1995年に実名を公表した川田氏は幼くして感染した悲劇性、小林よしのり氏の漫画『ゴーマニズム宣言』で「薬害エイズ事件」が取り上げられた際に大きくフィーチャーされたことで注目を集め、若くして「薬害エイズ事件」の象徴のような存在になった。

小林氏は「HIV訴訟を支える会」代表に就任し、精力的に広告塔的な活動を行っていたが、原告団勝訴後、原告団を支援していた学生ボランティアたちが共産党系の協力団体の影響で他のイシューに関わるようになったことで、それを批判し辞任。川田氏とも決別。これまで『ゴーマニズム宣言』で好青年的なビジュアルで描いていた彼を『新・ゴーマニズム宣言』で非常に不快なビジュアルで描いた。このころぐらいから小林氏の発言がどんどん右傾化していった気がする。

原告団勝訴後、川田氏は薬害と人権問題、国と大企業の癒着体質の問題に取り組んでいたが、2007年、参議院議員選挙に無所属で出馬し当選。その後紆余曲折を経て17年に立憲民主党に入党し、現在に至る。

データがいい加減

こういった経歴から、川田氏が製薬会社、医学会、厚生省に対して極度の不信感を持っていることは推測できるし、それは仕方がないことだとも思う。そう思いはするのだが、それらが絶対に悪いみたいになっているような印象があり、「それは違うのでは」となる。

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