340回 西田昌司の沖縄での失言と陰謀論大好きぶり
2025年5月3日に沖縄県で開催された、県神社庁、神道政治連盟県本部、日本会議県本部などが主催、自民党沖縄県連が共催の『第4回憲法シンポジウム/安倍晋三先生顕彰祭』での、ひめゆり平和祈念資料館の展示に関して「歴史の書き換え」などとした発言が強い批判を浴びていた自民党の西田昌司参議院議員。
自己の発言の正当性を主張し、謝罪を拒否していた西田氏だが、9日になって、一転して発言を撤回、「謝罪」した。
内容に疑問を感じる謝罪会見については後述するとして、問題となった発言を整理すると、
・国会議員になる前に、ひめゆりの塔にお参りに行った。
・そこでは日本軍が入ってきた結果、ひめゆり学徒隊が死ぬことになり、アメリカが入ってきて、沖縄が解放されたという説明がなされていた。
・歴史を書き換えられると、こういうことになってしまう。
・沖縄では地上戦の解釈を含めて、かなりむちゃくちゃな教育のされ方をしている。
・自身の頭で考え、ものを見て、流されている情報を自分たちで取捨選択して、自分たちが納得できる歴史を作らないと日本はアメリカから独立できない。
という内容であった。
7日の会見では、切り取った報道に問題があるとし、「沖縄戦は民間の方もたくさん犠牲になったが、助けるために日本軍が行った。日本人を守るために先人は戦い、犠牲になった人を悼むと同時に、なぜそういう戦争が起きたのかを、日本人自身が問いかけなければならないという文脈で発言した」と主張。しかし、実際のところ、文脈から切り取られたため誤解されたということはなく、そのままの意味で発言しているだけである。新聞報道を見ていないので詳しい内容はわからないという内容の発言もあったが、それでなぜ切り取りであると断言できるのか不可解である。
自分の発言が批難されると「きりとり」であると主張する人も多いが、実際に確認してみるとそのまんまの内容を言っていたり、前後を含めた全体の文脈の中で判断すると、より内容がひどくなる人も多い。その例が杉田水脈氏だったりするのだが、西田氏の場合もそれに近いのだろう。
「きりとり」と言っておけばいいだろうと適当に言っているのか、自虐史観からの脱却を訴えることが目的なので細かいことに何か言ってくるのは自分の主張を伝えていないから「きりとり」であるとしたいのか、西田氏がどう思っていたのかはわからないが、全体の文脈を踏まえて考えても意味が変わらない以上、間違いなく「きりとり」ではない。