推し本人がやってることを批判して嫌われるのは当たり前
批判を絶対するなという話ではない。
公共的な問題、社会的な道義の問題があるような言動や活動に関しては、それを常識の範囲内で批判することもあるだろう。
事務的な面で問題が生じている場合は常識の範囲で苦情をいったり、是正のお願いをすることだってあるだろう。
推し本人に責任がない、運営サイドの問題について批判することだってあるだろう。
ただ、推し本人のパフォーマンスや本人の表現、自作の曲をやっている人に楽曲についての不満を本人にわかるように伝えるのは違うのではないかという話だ。そして、あからさまな手抜きみたいな話を除けば、たいていの場合はオタク本人の好みの問題に過ぎない。
それがどんなに批評として正当な場合でも、否定的な意見を言われた方は不快に思うのが普通のことだと思う。人間には感情というものがある。正しかろうが、正しくなかろうが嫌われるのは当たり前であり、それをやって推しに嫌われたからと嘆くのはバカバカしい話だと思う。どちらかしか選べない話で両方願うのは無理がある。それは覚悟しないと。それでも推しに嫌われない例外的な関係性もあることもあるが、珍しいから例外なのであって、例外に期待してはいけないのである。
オタ活なんて勝手に好きになって、勝手に通っているだけのもので、なんらかの義務があるわけではない。だから、好きな現場だけ行けばいいし、つらいなら勝手に他界すればいいだけの話。無理して現場にいくことを正当化したり、美化したりする必要はない。あくまで趣味の世界の話なのだから。そういう達観が必要なのではないか。自分はそう思うようになった。
この原稿に書いているのは現場で比較的よく見られるパターンに基づいて考えた話であって、例えば運営や推し本人に明確な大きな問題がある場合、オタク側が完全に異常としかいいようがない場合など、個別のケースを見ていけば当てはまらないものが出てくるのは前提ではある。どんなに状況が変わろうが、やっていることが変わろうが、一人の推しを推し続けることが正義だと思っているタイプの人にとっては意味のない話だとも思う。なにより、「推しは人間だ」という話をしても、普段から身の回りの人に対して理不尽な言動をしている人には全然話が通じないだろうし、そういうものだ。ただ、無理してまでオタ活をしている自覚がある人がいるのであれば、無理はしないでいいのではないかと言いたいし、その無理を正当化しないで欲しいと思う。
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PROFILE:
ロマン優光(ろまんゆうこう)
ロマンポルシェ。のディレイ担当。「プンクボイ」名義で、ハードコア活動も行っており、『蠅の王、ソドムの市、その他全て』(Less Than TV)が絶賛発売中。代表的な著書として、『嘘みたいな本当の話はだいたい嘘』『90年代サブカルの呪い』(コアマガジン刊)『音楽家残酷物語』(ひよこ書房刊)などがある。
twitter:@punkuboizz