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西原理恵子の「暴力」性:ロマン優光連載214【2022年6月10日記事の再掲載】

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214回 西原理恵子の「暴力」性

生身の人間に関することを書いて人に読ませるという行為には「暴力」が内包されている。

ここでしているのは、対象に対して攻撃的だったり批判的であることを不特定多数の前で発言すると相手を傷つけるというような話でもないし、ネットリテラシーとかコンプライアンス的な問題の話でもない。それはまた別に語られるべき話ではあるが、ここで語っているのは違う話だ。

人間について書くということは、その人を外部から勝手に規定することに他ならない。

それは意味を与えることであり、役割を与えることだ。書く側の動機が善意に溢れたものであろうが、本人の意にそぐわないものであれば相手を苦しませることになるだろう。本人が喜んで受け入れたとしても、それが相手の資質にそぐわないものであれば、結果として相手の人生を悪い方に導いてしまうことにもなりかねない。世間に流布された自分ではない「自分」像に苦しんだり、他人が規定した「自分」を自分として受け入れて道を誤ってしまう人がどれだけいることか。書くということは混沌に目鼻をつける行為に陥ってしまいがちであり、対象を褒めていようが愛情がそこにあろうが「暴力」がそこに内包されていることはかわらない。愛情は、書くということの無垢や無謬性の担保にはなり得ない。

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これは原則的な話であって、書く側・書かれる側それぞれの資質・才能・方法論・関係性によって、さまざまな着地点があり、たいていは無難なところに落ち着く。あるいは問題に双方も周囲も気づかないまま特にトラブルになることもなく進んでいく。

西原理恵子氏という人は他人について書くことが内包する「暴力」性に自覚的であり、それを活用してきた人間だと思う。西原氏の場合、他者を描く際に傍観者として描いているわけではなく、自分を中心とした関係性の中で漫画のキャラクターとしての自分を輝かせるためのサブ・キャラクターとして周囲の人間を上手く描いてきた。漫画のキャラクター・サイバラのイメージは現実の西原にフィードバックされる。

エッセイ漫画のたぐいはそういう一面があったりするものだが、自分のイメージを現実社会で利益化するための道具として他者を描くことに近年もっとも長けていて、もっとも自覚的にそれをおこなってきた一人は彼女なのではないだろうか?

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