背景にあるのは、元皇族という“業”を永遠に背負わせようとする身勝手な論理である。
多くのメディアは「世論を代弁しているだけ」「国民の理解が得られていない」とし、「皇室の品位を守る」ためだと主張している。だが、これは本当に世論の代弁なのか。21年当時のNHKや共同通信の世論調査では、すでに「結婚は本人の自由」とする意見が過半数を占めていた。今回の出産報道でも大半が「皇籍を離れた一般人なのでもう報じる必要はない」と反応している。つまり、実際にはマスコミはネット上に飛び交う一部の過激な意見やヤフコメの声を「国民の声」として拡大解釈し、報道を重ねてきたわけだ。
最近では眞子さんのニューヨーク生活を追った『週刊現代』が、「異国で孤立する眞子さん」「皇族の娘としてふさわしい振る舞いか」といった見出しを繰り返し用いていた。通勤姿を隠し撮りし、ファッションや足取りを批評しているのだが、もはや報道というよりストーカー的監視行動である。
多くのメディアは「公人としての責任」「元皇族であることによる公的影響力」という観点から報道を正当化している。だが、ファッションや子どもの性別、生活ぶりまで報じることには疑問しかない。
ハッキリ言えば、メディアはただ話題性のために個人を追い回しているにすぎず、報道倫理を忘れて「小室夫妻バッシングの装置」と化しているのが現実だ。眞子さんの出産報道は、こうした問題がいまだに続いていることを象徴する出来事だと言えるだろう。
未成年を追い詰める報道の暴走
皇族に対するメディアの暴走は眞子さんに限った話ではない。
皇族の子どもたちは、生まれながらにして特別な環境に置かれている。しかし、未成年であるうちからその成長過程に粗探しの目を向け、学歴や言動をあげつらうような報道は、公共性の名を借りた暴力に他ならない。
秋篠宮家の長男・悠仁さまが、筑波大学附属高校に進学した際の報道などはその典型だろう。『週刊文春』は推薦入試の形式や内部事情を詳細に取り上げており、見出しには《特別扱い》や《裏口入学疑惑》といった文言を並べていたが、実際には「提携校進学制度」に則って受験・進学しており、その過程に違法性も不正も確認されていない。
また、『FLASH』は「秋篠宮家の教育方針に関係者が憂慮」と題し、関係者の匿名証言を引用しながら、「皇族としてふさわしいのか」「皇室の名を使った制度利用ではないか」といった疑念をあおった。このような記事に共通するのは、報道の名を借りて“選ばれた者”へのやっかみや不信を読者の感情として利用する姿勢である。