何より問題なのは、これが未成年に向けられているという事実だ。成年皇族としての公的責務もまだ負っていない時期に、個人の将来や努力を根拠の薄い批判によって傷つける行為は明らかに行き過ぎている。しかも、その主な根拠が「国民の税金で生活している」「将来の天皇になりうる人物だから」といった曖昧な一般論に依拠している以上、報道というより感情論の投影に過ぎない。
同様の構造は、秋篠宮家の次女・佳子さまにもあてはまる。たとえば『女性セブン』は「佳子さま“夜遊び報道”の波紋」という見出しで、私服姿での外出や都内での知人との会食を「軽率な行動」として批判した。また『週刊女性』は、「佳子さまに男性の影?」という表現で、SNSに出回った一般男性との写真をもとに熱愛疑惑を掲載したこともある。信憑性の不確かな写真で、皇族の恋愛や交友関係を面白おかしく書き立てる姿勢は皇族を見世物にしたゴシップそのものだ。
これらの報道に共通しているのは、皇族としての公的活動や実績には触れず、プライベートに焦点を当てることで見世物化している点である。佳子さまは2021年以降、国内外での公務に積極的に取り組んでおり、聴覚障害者との交流や、国際的なジェンダー問題の会議にも出席しているが、こうした公的活動はあまり報道されず、服装や私生活にばかり注目が集まるのは極めて不健全だ。
メディア側は二言目には「皇族には説明責任がある」「警備や生活が税金で賄われている以上、一定の透明性は必要」と主張する。しかしその責任の範囲は公務や制度的な議論に限るべきで、未成年の教育進路や成年皇族の恋愛事情まで踏み込むことは、明らかに報道の範疇を逸脱している。
英国王室の報道と比較しても、日本の状況は異常だ。
英国では王室にも一定のプライバシーが尊重されており、たとえば進学先は報じられるものの、それ以上の詮索やバッシングは避けられている。仮に報道被害があれば王室側が毅然と抗議することもあるのだが、日本では皇族側がメディアに抗議するという文化はほぼ存在しない。
メディア側はこれを“報道の自由”としているが、実態は絶対に反撃しない相手を集団で追い込んでいるようなもの。その相手は子どもや若い女性だ。もはや知る権利や公共性の名を借りた公的暴力といっていい。