悠仁さまは最終的に筑波大学に進学しているが、この際も『週刊新潮』『週刊文春』が同様の推測の元、「皇族の特権を利用して進学するのはどうなのか」と批判記事を掲載。悠仁さまの東大進学に反対の署名運動が行われる騒ぎとなった。
だが、そもそも悠仁さまが東京大学を志望していると公式に語った事実は一度もない。親しい友人や教師の証言として紹介されたコメントも匿名であり情報源としての信頼性は低い。それでも「合格は難しい」「失敗すれば皇室の威信が」といった文言が飛び交うのだ。これはもはや報道ではなくゴシップという名の公開プレッシャーでしかないだろう。まして相手は10代の未成年である。
こうした「やりたい放題」が続いた結果、現在の皇室報道は、いくつかの深刻な弊害を生んでいる。
ひとつは皇室制度そのものに対する国民の信頼感を損なっている点だ。皇族批判が度を超えることで、結果的に制度そのものを低俗化する冷笑主義が広がっている。
それ以上に深刻なのが、メディア自身の信頼性の失墜だ。皇室報道の多くが、「関係者による証言」「宮内庁関係者」「学習院OB」などの匿名情報であり、その信憑性は玉石混交だ。読者側もそのことに気づき始めており、報道機関が免罪符のように口にする「公共性」「公益性」という報道理念の正当性を自ら手放していると言えるだろう。
報道の自由は民主主義の根幹を支える制度であり、同時に権力を監視するための手段でもある。だが、今の皇室報道は反論も反撃もできない弱者に対する「安全なバッシング」と化している。
本来、皇室報道において問われるべきは、国民の7割が賛成している女系天皇の是非といった制度と時代の齟齬や、象徴天皇制の未来をどう設計していくかという社会的議論である。その本質を見失い、目先のスキャンダリズムで民衆の劣情を刺激するだけの皇室報道は、世間に向かってメディアの劣化を喧伝しているようなものである。
文/小松立志
初出/実話BUNKAタブー2025年8月号