新型コロナで「集団化」が加速した
数カ月後に世界がまるで変わってしまうなんて、考えてもみなかった2019年の秋。森達也監督は最新のドキュメンタリー映画『i-新聞記者ドキュメント-』を発表したばかりでした。
しかし冬から春にかけて出展が決まっていた映画祭の中で、会場に足を運べたのは、20年1月末にヘルシンキで開催されたドキュメンタリー映画祭のみ。
ほかの映画祭は軒並みオンラインでの開催に切り替わってしまい、仕方ないとわかっていても森さんは残念な気持ちになっていました。
「やっぱりその瞬間、同じ場に居るか居ないかって大きくて、ノイズであったり匂いであったり、そういうものを共有できないって僕自身はストレスになりますね」
インタビューのために訪れた喫茶店は、焼きそばのソースの匂いが漂っています。
「そういう体験の共有がなくなって、みんなが二次情報ばかりと接している状況が今後何年も続くなら、社会全体のあり方、人の意識の持ち方が変わってくるんじゃないかなって。そしてそれはどう考えてもいい方には変わらないんじゃないかって思います」
ちょうど店員さんが盛大にコーヒーカップを落っことした音を、私と森さんはアクリル板を挟んだあっちとこっちで一緒に聞きました。
コロナ禍にはオンラインやアクリル板越しの対面のように「覆って隠してしまったもの」もあれば、「隠されてきた矛盾を浮き彫りにした」一面もあると森さんは話します。
たとえば無理に出社しなくても、業種によってはオンラインで仕事ができるとわかったこと。
「日本は封建的な会社システムでずっとやってきたから、コロナによって強圧的に抱えてきた因習だったり矛盾だったりから解放されて良いと思います」
しかし一方で、コロナを理由に政治家が記者会見の席数を半分に減らすという良からぬ矛盾も起きています。それこそ記者がオンラインで参加できるようにしたり、広い会場に移動したり、対策はいくらでも思いつくのに、忖度してくれる記者だけを出席させようとするのです。
「コロナを理由に自分たちの都合のいいように制度をねじ曲げるのは、政治の世界だけでなく、いろんなところで起きています」
しかし、そうした明らかな矛盾に対しても意見しづらいところに、日本に深く根ざす「集団化」の性質がかかわっているのです。そしてコロナによって、その性質はより加速したと森さんは感じています。