そうかといって難解さを前面に押し出してくるような作品ではない。ちゃんと活劇でもある。「アニメーションは活劇たれ」みたいなものが、宮崎監督の脳内宇宙では重大なことだし、無意識の領域にまで刻みこまれているのではないかと思わせられる。そう、ちゃんと活劇だし、冒険なのだ。
宮崎監督自身が言及していたが 、主人公は他の宮崎作品の主人公に比べてネガティブなタイプの人間であり、生々しい鬱屈した感情の持ち主である。そんな彼がちゃんと「活劇」するし、「冒険」をする。そんな時、彼の中にもコナンやパズーのようなまっすぐな宮崎作品の少年がいるのが伝わってくる。主人公は宮崎監督自身の内面が強く投影されているキャラクターなのは間違いないのだが、そう考えると、宮崎監督の中にも、そういう少年がいるのだろう。それはなんとなく嬉しい気分になる。いつもの手癖が抜けなくて主人公がああいう感じになったなどと考えるより、ああいう部分が監督にあるのも事実。そう考えたほうが楽しいものだ。
万人が認める傑作ではないかも?
作品自体の話とはズレるのだが、何の情報もなしに作品に触れることの楽しさを痛感した。最近は、事前に得た情報を確認しにいくような映画の観に行き方をしてしまいがちだが、情報がシャットアウトされている『君たちはどう生きるか』では、そういう見方をしたくても全然できない。子供の時の映画体験、映画館にテレビでやたら宣伝しているような有名作品を見に行って、同時上映の全然知らない作品を観て面白くて夢中になってしまった時の感覚を思い出した。あの楽しさだ。
映画を観たときに、よくわからなかったりすると「評論家の○○さんの話を聞いて答え合わせをしなきゃ!」みたいなことを言い出す人をSNSでよく見かけるが、そういう全てに意味を求めるような人にとっては不親切な映画だろうとは思う。
作中、物語上不必要に感じるものが登場することもいくつかあった。「あれは宮崎監督が出したかっただけだろう」と普通は考えてしまうが、もしかしたら監督の中では物語上の必然性があり、非常に理路整然と説明してくれるかもしれない。
だからといって、それが本当の答えだとも言えない。監督はそう思っているけれど、本人すら気づかない無意識の領域から浮かび上がってきた意味があるのかもしれない。作者すら気づかない何らかの意味が存在するのが作品というものである。